文科省は2019年10月25日に「これまでの不登校対応を転換させる通知」を全小中学校へ向けて出しました。「学校へ戻すことだけがゴールではない」という新しい不登校対応の方針が出ましたが、そもそも「学校に行くこと」が義務教育ではありません。
今回の通知によって、「学校復帰前提策はやめて、その子にとって適切な教育環境を整備すること」が学校現場に「はっきりと」求められたのです。この「新たに求めている不登校対応」とは、「不登校支援は学校復帰よりも社会的自立が目標である」というものです。つまり「子ども一人ひとりの自己肯定力を育てるよう個々の目的に応じた学びの環境を社会が整備する」ことが目標だということです。
文科省が「学校復帰前提策」を廃止!全小中学校へ向けて通知
子どもの学びの権利を保障するのが義務教育の真の意味であり国の責務です。
それを怠り、多様な学びの場を作ってこなかったことが問題なのです。
多様な学びの場を新たに作ろうとするには時間もお金もかかりますが、早急に作る方法がひとつだけあります。
それは、学校独自の「自由な教育課程やプログラム作り」を国が認めればいいです。
それは子ども個々のニーズに応じて各学校単位で職員が決めます。
教育支援センターや適応指導教室の目的や内容を変えることもすぐに可能で、そこを次へのステップにしてもいいです。
自ら学び考える力を育てるためにも「学びの自由化改革」が必要です
これまではすべての公立学校を地域の教育委員会主導のもとで一様にしようとしたことが問題だったわけで、当然そのシステムに合わない子も出てきます。だから文科省のいう定義での「不登校」は永遠になくなることはありません。それを各校の独自のスタイルでやっていくことで、様々な学びのスタイルに対応できます。
実際に公立学校でそれを実践しているところもあります。
そして、その学校に行くかは子どもの目的に応じて本人が選べばいいです。
もちろん、どの学校を選んだとしてもその後の進路も平等に保障されます。
しかし、それでは人気のある学校とそうでない学校の「差」が生じるという人が必ず出てきます。
でも、そんなこと無視したらいいです。
学校の良さは人数や学力偏差値で決まるわけではなく、子ども個々が決めることだからです。
児童生徒が一人であっても構いません。
子ども自身が行きたいところに行くことを最優先して決めたらいいです。
それを国が「よし」といえば今すぐにでも実行できます。
それが「子どもの学びの権利を保障する」という意味であり行動化です。
思いや観念ではなく実行に移すためには具体的に何が必要なのかが重要なんです。
「学校へ戻すことがゴールじゃない」文科省が不登校対応の歴史的な見直しへ
不登校の気持ちを無視した「学校復帰前提策」を撤廃へ 文科省が示した本気度とは
「不登校問題」とは何か?
文科省は不登校に関して「学校復帰率を上げろ」などとはいっていない。
「不登校は問題行動ではない」「学校復帰を前提にする必要はない」という通知を出している。
学習指導要領の解説には「不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を『問題行動』と判断してはならない。」「不登校児童が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童に寄り添い共感的理解と需要の施設をもつことが、児童の自己肯定感を高めるためにも重要である」と明記されている。
「普通教育機会確保法」によって学校以外の学びの場も認められている。
文科省が「学校復帰前提策」を廃止!全小中学校へ向けて通知
しかし、これらと実際に学校や教育委員会の行っている対応とのギャップが大きい。
さらに、学校に行かない子ども、行かせない保護者に対する社会的な見方は固定観念で固まっている。
学校に行かないことが問題なのではなく、このような対応の仕方や世間の間違った認識を「不登校問題」といいます。
「不登校問題」とは「不登校は問題である」という考え方そのものにあります。「子どもが学校に行かないことが問題である」「学校に行かない子は問題児」という考え方が問題なのです。
なので、「不登校は問題行動ではない」「学校に行かなくても問題ない」という認識が広がることが「不登校問題」の解決です。ていうか世間がそれを認めるかどうかなど関係なく、自分がやりたいことを自由にやったらいいのです。
そもそも「不登校」という概念を作り上げたことに問題があります。学びとは「学校に行くこと」ではありません。義務教育とは子どもが学校に行く義務ではありません。義務教育の場は学校だけではありません。
学校に行ってもよし、学校以外で学んでもよし、学校は学びの場のひとつにすぎません。だから、学校に行かないことをわざわざ「不登校」なんて呼ばなくてもいいのです。
不登校対応で最も注意すべきことはマニュアル化、パターン化です。
どれだけ個々の子どもに寄り添い個別の対応をしていくかが大切です。
鳥取県でもかつて「ワースト1位」という負のレッテルを貼られたことがありました。そのため、県教委は必死になって子どもたちを学校に引き戻そうとしました。そのときは私は現職でしたがその方針は間違っていると思っていました。そしてその結果、不登校児童生徒は増え続けています。
その対策が間違っていたためです。
「ワースト1位」という表現は「学校に行かない子は悪い子」「不登校は問題である」という意識から起こっています。これは間違った認識です。
不登校の子どもが増えているのは公教育で子どもが安心して楽しく過ごせる場所がなくなったことが要因です。文科省や教委は「子どもの無気力」を要因のトップに上げていますが、決してそうではありません。向上心のない子どもなんて一人もいません。勉強したくない子どもも一人もいません。子どもを無気力にしているのは学習環境が悪いためです。無理なことを強制したり他者と比較して優劣をつけている評価制度、すでに学校は命を賭けてまで行く場所ではなくなっています。
つまり、子どもが学ぶ環境に不備があるという意味です。
すでに学校は社会に適応できなくなっているのは明白ですよ。
なぜ不登校が増えるのか。そこに「安心して過ごせない学校」があるからです。
だから「誰もが安心して過ごせる学校」になれば不登校はなくなります。
だから、不登校は永遠になくなりません。
これまでの不登校対策は、この本質が欠如しています。
不登校が増えるのは健全な社会を作るためには必要なことなのです。
大切なことは、自分はどう生きるかを自身で決めて実行していくことです。
まあ、学校宗教にすがりたい人、洗脳されたい人は行けばいいと思いますけどね。
お布施をどんどん払って。
医療、福祉、政治、すべてが義務教育という洗脳によって機能不全に陥っています。
子どもたちは義務教育という「絶対服従」を押しつけられ、国家、経営者、管理側に気に入られようと競争する「従業員」として洗脳されていきます。
「支配者にとって不都合な人間を排除するための」公教育なのですが、多くの人はそれを当たり前のこととして「ありがたく」受け取っています。
だから、それに「NO!」といえる子どもたちは極めて健全なのです。
不登校の子どもが増えているのはきわめて当たり前の正常な反応なのです。
子どもも教員もどんだけ無理しているか。
そもそも文科省の方針や教委の対応が不登校を増やし続けているという自覚がない。
それに気づかないで机上で「対策ゴッコ」の紙だけ作ってもなんの意味もないです。
不登校が増えている理由は何か?
そこに強制されて行かされる学校があるからです。
それを子どもたちは「ぼくたちが安心して過ごせる場所を創ってほしい!」と、言葉と行動で訴えているのです。つまり「学校に行かない」といえる子どもたち、学校以外の場を選んだ子どもたちは主体的な生き方をしていると考えたらいいです。
このように、私たち大人はきちんと自己主張できる子を育てていかなければなりません。
日本は、居場所がありません。
方法は2つあります。
1.学校をもっとゆるくする
2.学校以外の場を作る
学校教育法で縛られた学校を変えることは大変ですが、校長裁量でいろいろ工夫することは可能です。
学校以外の場もあまり型に縛られないで、自由に作ったらいいと思います。
ということで、私は自宅を開放して「居場所」みたいな、なんでもOKの場を提供しています。
そして。それを受け取った私たち大人にはそれに応える責任があります。そこで、私は昨年5月から平日の午後に自宅を開放して誰でも来られるようにしました。ここで何をしてもいい場所にしています。
21世紀の松下村塾 自由な学びの場
おはなしワクチン「文部科学省の方と話してきました。」
「不登校」という言葉は人間を否定する差別用語です。
それが一般的になんの疑問も持たないで日常的に使われといることが間違いです。
不登校は個人の問題ではなく、社会の側にある問題であるという認識が必要です。
「不登校という言葉はもうやめよう だって差別用語だから」
子どもたちは「不登校」という言葉をどう思っているのか