人はいつでもどこでも学び成長している。
だから「不登校」なんて概念はそもそも存在しない。
学校に行くとか行かないとかどうでもいい。
「不登校」なんて用語を作ったことが差別と偏見を産んでいる。
つまり「不登校」とはネガティブなイメージを作るために仕組まれた概念である。
「既存の文科省認可の学校に行かないこと」を「不登校」というのなら「不登校」のままで自分のスタイルでやっていったらいい。
「不登校であること」「学校に行かない」という選択をしたことに誇りと自信を持って生きていけばいい。それにはなんの問題もない。
ましてや「不登校を治す」必要などない。「不登校であること」にはなんの問題もないのだから、そのまま自由に自信を持ってやっていったらいい。
「不登校」なんてただそれだけのこと。
好きな時に好きな場所で自由に学び自由に遊び自由に生きる。
別に他者と関わらなくても交わらなくても構わない。独りがいい人は独りでOK。
これが自立して生きるということ。
学校に行くとか行かないとかどうでもいい。
人は何歳でもどこでも誰とでも独りでも学べるし成長できるのだから。
米国には不登校が存在しない
アメリカでホームスクールを実践する家庭は、180~220万家庭。
高校生年代までの就学者のうちの5%弱。
1980年代に、アメリカの最高裁は「子どもの教育責任と教育権は、親にある」と判決文を下したために、ワシントン州をはじめ全州でホームスクールは納税者である親の権利として認可され、国が侵害できないものとなった。
いわゆる自宅学校設置権である。
アメリカの子どもたちは20人の一人の割合で、学校に行かずに自宅を中心に学んでいる。
その際、親が教師あるいはコーディネーター、カリキュラム・プロデューサーとしてスキル修得、スキルアップしていくことが必要条件になる。
そのため親向けの教育機関、新聞ほか専門サイト、教材の通販サイト、親同士のコミュニティが無数にある。
親同士は結び合い、同志観を高め合う。
ホームスクールの親たちが法人をつくり、チャータースクール(公設民営学校)の運営主体になるケースも多いと聞く。
アメリカでホームスクールを調べていくうちに、ホームスクーラー(ホームスクールを実践する家庭)のキャンプ、セミナーがほんとに多いことに驚かされた。
ロサンゼルスのマリオットホテルを全館貸切で3日間、ホームスクール・カンファレンスが行われていたので参加したことがあった。
親向けのセッション、子供向けのセッションも多種多様で、和気あいあい、ワンダーランドのような状態だった。
アメリカのホームスクールの特徴は、親の意識の高さ(大卒、共和党支持者が多い、クリスチャニティ、母親のキャリアウーマンの経験)である。
わが子の教育をわけのわからない他人に預けたりしないわよ、と話し、あっはっはと豪快に笑い飛ばす、おおらかで陽気なたくましい母親たちのようすに私は脳天を撃ち抜かれるようなショックを感じたものだった。
明治期に先進国の仲間入りをしようという、キャッチアップ・ポリシーに基づいてプロシア型の国家教育を取り入れて以来、日本的な配給型の学校教育に親は全面委託してきた。
教育観の違いは、とほうもない違いに感じられた。
学校教育には無縁だった私でも学校をつくれる、つくっていいんだとインスパイアされたのは紛れもない事実だった。
日野 公三さん(明蓬館高等学校校長兼オール神奈川センター長)のFacebook
「不登校」とは子どもの側の問題ではない
最も基本的な認識として、「不登校」とは子どもの側の問題ではなく学校側、受け入れる側の問題であるということ。
まずはこれを間違ってはいけない。
つまり「不登校を治す」とは学校側文科省サイドの問題を改善する必要があるということ。
そもそも「不登校の定義」自体が子どもの側に立ったものではなく、学校側の都合でいわれているものだから。
「学校にNo!」という子どもが増えるのは決して悪いことではない。
むしろ自分で考え自分で判断できる子どもが育っていると考えたらいい。
「不登校」も全然アリだから。
学校に行かなくても全然OKだから。