ひきこもりが今さらのブームのように取り上げられています。
ひきこもりが注目されるのは悪いことではないと思いますが、メディアの報道は興味本意、そこに野次馬がたかる光景にしか見えません。
わけのわからないコメンテーターが無責任な発言をして勝手に言い合いそれに対する訂正もフォローもない垂れ流し番組。
最も重要なことはひきこもりについての理解者を増やし、ひきこもりに対する社会の認識を変えることですが、メディア報道を見れば見るほどひきこもりへの偏見を拡大しているように思います。
この「ブーム」が過ぎ去ると何も変わらない状態に戻っていくだけではなく、さらにひきこもりの人や家族が生きにくい世の中になるかもしれないと思います。
あと、「不登校からひきこもりになる」という表現もまた「どこかに属する」ことが前提となっていておかしいですよ。
支援する側がもっと真摯でなければならない
このところの「ひきこもりに関する動き」を見ていて思ったこと。
本人や家族が変わることを要求する支援って「支援」っていえるのだろうか?
支援する立場にある者は支援者が原因で継続支援が不能になっていることに気づいていないのではないだろうか?
支援する側の用意したものの中に入らせようとすればするほど本人や家族はそこから離れていくのではないだろうか。
「させる支援」「してあげる支援」を続ければ続けるほど離れていくのです。
ひきこもり支援にしても不登校支援にしても「なにかに当てはめよう」とすることが間違いなんだと思います。
「社会に属するかどうか」「学校に行くか行かないか」で判断、定義していることがそもそも問題なんだと思います。
だから、支援する側がもっと真摯でなければならないのだとふと思いました。
「ひきこもりの解消」も「就職」も目的でもゴールでもない。
大切なのは、しんどいのは本人であるという事実の認識。そして、そのしんどい状態(ひきこもり)で何年も何十年も生きてきたという事実を「すごい」と認めること。親も苦しいながらも「よくやった」と認めること。
「対策」を考える上で何よりも大事な目的は「その人がその人として生きること」である。
働かなくても生きていける。
生活保護や親のカネで生活してもなんら問題ではない。
これからの少子社会は「誰かを頼ってもよい社会」になったらいい。
目標やゴールを決めるのは本人です
不登校やひきこもりでよく使われる言葉に「治す」があります。
この表現は不適切です。
障害を「治す」も使われています。
「治す」とは病気をなおすとか故障をなおすとか、よくない状態をよくするとか悪いことを正すという意味があります。
不登校もひきこもりも障害も治す必要はありません。本人は何も変えなくていいです。何も治す必要もありません。
変えるのは周りの環境、本人に対して「障壁になっているもの」です。その中には親、教員、行政、専門家、支援者の対応の仕方も含みます。
「障壁になっているものを治す」が正しい表現です。
対応方法を治す必要があります。
目標やゴールを決めるのは本人です。
学校や行政、専門家や支援者が決めることではありません。
それはもちろん親が決めることでもありません。
しかし、親は本人が決めるのを待てません。教育行政や支援者はもっと待てません。
その理由は学校に引き戻したり家から外に出たという「実績」を作りたいからです。
これがそもそも間違いの元です。
そこを間違えているために、「本人にとっての解決」につながっていかないのです。
では「待つ」とはどういうことなのか、どうやって待ったらいいのか?
こちらの子どもが不登校になったけど一体いつまで待ったらいいの?をご覧ください。
「生活保護」は、働いていても、若くても、持ち家があっても、車があっても申請可能
これは知りませんでした。
これはこれまでの政治の成果のひとつといえます。
いかに世の中に必要な情報が正しく伝えられていないかということが分かります。
これはメディアがセンセーショナルに取り上げて肝心なことが報道されていないことも要因だと思います。
間違った情報で先入観や偏見につながることを注意する必要があります。
パンフレット「あなたも使える生活保護」には、生活保護にまつわる「よくある誤解」についても言及されています。
まずは申請にまつわる誤解。生活保護は、働いている人でも、若者でも、持ち家・車があっても申請ができる制度です。パンフレットにもありますが、「給料が最低生活費以下であれば、足りない分が支給される」ということもあまり知られていません。
こちらのサイトで最低生活費についても、具体的な例が提示されています。
「生活保護」は、働いていても、若くても、持ち家があっても、車があっても申請可能です