教育

不登校の目的、学校へ行かないことの是非は「本人はどうなのか」で考えること

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私も大池さんとまったく同意見です。
そして、アドラー心理学の考え方での「不登校の目的」についての考察が分かりやすいです。
「不登校対策」は、これまでも今も支援者が目標を定めて「させたがる」支援ばかりしているように思います。また、子ども本人よりも「こうあってほしい」という親の希望が優先しているような気もします。
そこには、子ども本人の思いや願いが忘れられているような気がします。
「大事なのは、「不登校」が良いか悪いかを考えるのではなく、今不登校を選んでいるその子は幸せそうかどうかではないだろうか。
学校へ行かないことの是非は、その選択が本人が望むことに適しているのかどうかを考えなければわからない。」
それを決めるのは、誰でもない、子ども本人なのです。大切なことは「本人はどうなのか」なのです。

【不登校の目的】
一昨日、ヒューマンギルドが主催する
アドラー心理学のベーシック講座を受講した。
長年教師を務め、いろいろな子どもたちを前に
アドラーの教えが本当かどうか試してきたという
三輪先生から語られる子どもとのエピソードは、
言葉に血が通っていて、温もりと重みを感じた。
アドラーは、過去に起こった原因からではなく
未来にある目的から人間を理解しようとする。
では、不登校の目的は何だろう。
三輪先生は言う。
「子どもは”いじめられたから学校行きたくない”とか
“先生が怖いから行きたくない”とか言うけど、
本当は違うんですよ。
いじめがなくなったら行くようになるわけでも
先生が変わったら行くわけでもない。
行かないことで手に入れたいものがあるから、
子どもは学校に行かないんです。
だけど誰もわかってくれないと思ってるから、
周りが納得するような理由を言っているんですよ」
不登校だった頃の自分の記憶に響いたのか、
“誰もわかってくれないと思っているから”の言葉に
頭で理解するより先に、手にポタポタと涙が落ちた。
自分でさえ気づいていなかった感情を
誰かが言葉にして表現してくれると、
あぁそうだったのか、と救われる思いがするものだ。
それで、不登校について思いを巡らせた。
そもそもアドラー心理学は、
「病気」そのものではなく
病気になったその「人」を理解しようとする心理学である。
不登校は病気ではないが、考え方は同じだ。
「行かない」ことをわかろうとするのでなく、
行かない選択をしたその「子」をわかろうとする。
文字にすると大した違いはないように思えるが、
この見方の違いは大きいと思う。
問題を見るのか、その人を見るのか。
「あなたはどうして学校行かないの」
「あなたはどうすれば学校に行くの」
と問うのと
「あなたは今何を感じているの」
「あなたが望んでいることは何だろう」
と問うのでは、違ってくる。
人は先入観を捨てて物事を見ることはできないが、
「先入観を一旦手放して、相手を見よ」というのが
アドラーの教えでもある。
それは良いことだとか悪いことだとか、
あなたがしていることは正しいとか間違ってるとか、
先入観があるとどうしたって目の前の人の「気持ち」を見落としてしまう。
「学校へ行かないのは良くないこと」
の思いが先にあれば、
学校に行かないことでその子が手にしたがった
大切なものを見過ごすだろう。
「学校へ行かなくても問題ない」
の思いが先にあれば、
学校に行かない選択をしたその子の心のSOSまで
問題ないと見逃してしまうかもしれない。
大事なのは、
「不登校」が良いか悪いかを考えるのではなく
今不登校を選んでいるその子は幸せそうかどうか
ではないだろうか。
学校へ行かないことの是非は、
その選択が本人が望むことに
適しているのかどうかを考えなければ
わからない。
望んでいること、手に入れたいことは
本当はとてもシンプルなことなのではないか
と思う。
ここまで書いて、
私の不登校の目的はなんだったのか、
改めて考えた。
当時、色んな人から幾度となく
「どうして学校に行かないの」
と問われたが、最後までわからなかった。
わからないことにしておきたかったのかもしれない。
アドラーは、疫病利得を見逃さなかった。
「病気になったからできない」のではなく
「できないことの理由に病気が必要だった」のだと。
私が不登校のおかげで手に入れたものは、
喧嘩した友達と向き合わなくて済んだこと、
成績優秀であろうとする自分を捨てたこと。
つまりは、嫌われたくなかったんだろう。
友達に好かれる自分でいたかったのだ。
文字の方が先に出てきて、
書いてて自分でびっくりした。
そうか、そんな単純なことだったのか。
きっと「そんなのカッコ悪い」と思って
ずっとずっと認めたくなかったのだろう。
とはいえ、これも
「今の自分」だから思いつく過去の解釈だ。
もしも私が今、とても苦しんでいて
人間関係なんていらないと思っていたら
「不登校だったあの時から
私は人に嫌われたくて避けていた」
と思ったことだろう。
記憶は、事実ではなく解釈である。
解釈は、その時の自分の考え方に沿って
いくらでも変わっていく。
「過去は変えられないけど、
今と自分は変えられる」というが、
本当は過去だって変えられる。
そういう意味でも、
不登校ということ自体は全く問題ない。
不登校だろうが成績優秀だろうが、
その頃の経験がどういう意味をなすのかは
結局のところ
未来のその人にかかっているのだから。
それは不登校に限らず何でも誰でもそうで、
今がどうであろうとも
未来の自分から見れば
「あの時の経験があったから今がある」
と思えるようになるのだ。

出典:大池 良枝さんのFacebookより

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