ボクも「無意味耐性」がめちゃくちゃ弱かった。
点数をつけたら落第点だわ。
(なんの意味もない点数だからど~でもええけど)
学校とは自分で考えて自己主張したらいけないところ。黙っていわれたことだけ従ったら「いい点数」がもらえるところ。
本当につまらん、つまらん。
だから子どものころも教員になってからも学校という場所、学校というシステムが合わなかったんだと思う。
子どものころも担任や親に逆らっていたし、教員時代も自分の学級だけ好き勝手なことをしていたし。だから楽しかった。
だから、そんな自分が大好きだし、それでOK。自慢のボクだから。
学校というところにはとてつもなく無意味なルールがあります。
こうした「学校の無意味」を哲学者の内田樹さんは「無意味耐性」とよぶ。
これは「無意味なコト」に「意味がないまま」「耐える」訓練なのだという。
「無意味耐性」が強い子ほど「優等生」とよばれるそうだ。
やがて「優等な社員」や「優等な先生」となり、、
「優等な社長」や「優等な校長」となって「無意味耐性」の連鎖は続く。
「無意味耐性」の弱い子はたくさんいると思います。
でも、決して強くなろうとがんばらなくてもいいよ。
無意味なことは無意味、理不尽なことに従うことはないんだから、そんな自分に自信を持ったらいいよ。
園や学校など集団生活の場では「みんなと同じ」ことを強制させられる。
家庭でも「みんながやっているから」という理不尽な理由でやらされる。
それをしないと「問題児」だとレッテルを貼られる。
教員や親はただただ「がんばれ!」「なんでやらないの!」というだけで子どもの気持ちに寄り添うことはしない。
子どもはますます抵抗し(ホントは子どもの言い分が正しいのに)、さらにきつく叱るようになる。
子どもを理解するとは「わかったわかった」と口でいうのではなく、対応や環境を変えることなのです。
無意味なことを大人がやめるべきなのです。
無意味耐性の高い人たち(内田樹の研究室)
子どもが何でもかんでも強制される学校に合わないのは当然です。だから「適応指導」という強制をして「みんなに合わせようとする」ことがいかに無理解で無理な指導であるかがわかります。
「強制されることに過度な違和感を持つ」パーソナリティとは、自分の主義主張を持っているということです。自己主張できる素晴らしいパーソナリティです。最も重要なことです。
「強制されることに過度な違和感を持つ」パーソナリティと不登校対応のギャップを考える
山のこの学校には、たくさんのものが「ない」
子どもたちの自己決定権をなにより重んじる自由な学校が、山梨県南アルプス市にあります。
この学校では、そうじゃない。子どもたちは、自由に、なんでも作れる。
この学校には、たくさんのものが「ない」のである。
なにがないかっていうと、ぼくたちが、「学校」ということばから思いつくことのできるものがほとんどない、っていうことだ。
いいだろうか。
まず、「学年」がない。それから、算数とか国語とか理科とか社会という「教科」の名前がない。
驚きましたか? でも、驚くのはぜんぜん早い。さらに、この学校では、
「宿題」がない、
「チャイム」がない、
「試験」がない、
「通信簿」がない。
ふう。目が回ってしまいそうだ。でも、もっともっと「ない」ものがあるのだ。
さらに、
「先生」が(い)ない、
「廊下」がない、
「入学式」も「卒業式」もない、
でもって、「お金」もない(これは、半分冗談、でも半分ほんとう)。
まことにもって、なにもない。けれども、あるものがある(おかしな言い方だ)。校長のホリさんは胸をはっていうのである。
「楽しいことがいっぱいあります」と。
山の中に子どもたちのための学校があった──高橋源一郎の「南アルプス子どもの村小学校」訪問記
夢みる小学校 予告編ロングヴァージョン