「不登校」という表現を抹殺したい!
「不登校」の言葉自体がネガティブイメージを与えている元となっています。
「不良」「不安定」「不適応」「不認可」など、どれも否定する言葉です。
「不登校」も「学校へ行かないことを否定する」言葉になっていて、多くの人は「学校へ行かないこと=悪いこと、してはいけないこと」という捉え方をしています。
さらに、「不登校」という言葉を使うことによって人格までも否定している(されている)ケースだってあります。
「学校へ行くのもあり、学校へ行かないのもあり」なんですから、そもそも「不登校」ということ自体がありえないのです。
学校へ行くのが「当たり前」「普通の子」「常識」ではないんです。
「学校へ行かないこと、行っていないこと」が問題なのではなく、「行く場所がない」「行く場所が選べない」ことが問題なのです。
そして、「学校へ行かないことも選択肢のひとつである」という社会的な認識と理解を広めていくことが重要です。
さらに、学校へ「行くか行かないか」の二者択一ではなく、多くの選択肢を増やしていくことが必要です。
私たちが構成している社会の責任として、いろいろな選択肢を増やしていくことが重要です。
言葉のイメージというのは私たちの意識や暮らしの中に知らず知らずのうちに入り込んでいます。
「障害者」
「知的障害」
「精神障害」
「身体障害」
「健常者」
「健康・健全」
「病気・疾患」
「普通」
「異常」
「一般的」
「常識」
「非常識」
これらは、絶対的なものではなく、他との関係性において人が勝手に作ったもの「作られた状態」にすぎません。
障害は本人にあるのではなく「周囲の環境」側にあります。
「周囲の環境」が変われば「障害」は障害ではなくなります。
「常識」が「非常識」に変わります。
このように、関係性によってコロコロ変わる、言葉というのは本当に不確かなものなんです。
特に「不」という表現は、それを否定し排除する言葉で、上からの「支配者」によって都合のいいように操作されている、気づかないうちに大きな影響、それもマイナス、ネガティブなイメージを持たされています。
それが私たち一人ひとりの意識の中に刷り込まれていきます。
だから私は言葉にこだわっています。
「不登校」という表現による「学校へ行かないことは悪いこと」という社会的慣例と日本人の認識が子どもを取りまくさまざまな問題の根源であるということを強調していき、「不登校」という表現を抹殺したいです。
「不登校」という言葉、概念をなくすため、これからもできることをしていきます。
「不登校」の言葉自体がネガティブイメージを与えている元
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執筆者:azbooks