ホリエモンのいう「行政がお墨付きをつけるような仕組み」というのが、「すべての子どもに教育上必要な支援」を作ることなんです。
それはちゃんと教育基本法に定められていて、「すべての子ども」に学ぶ機会を作ることになっているのですが、世間では学校に行かない子は「ダメなやつら」っていわれてしまう。
現実として、その結果、個別の能力を伸ばせない教育になっています。
さらに、がんばって学校に行っている子にしても、狭い狭い、みんなが同一のものさしで「できるかできないか」で評価されています。だから、それをクリアできない子は自分自身で「ダメな自分」と見てしまいます。
でもそれって、子どもがダメなんじゃなくて個別の能力を見ることができない、発揮することができない場しか作ってないってことです。ダメなのはそれを作っていない大人の側なんです。
だったら、自分の学びたいことが学べる場を作ればいいってことで、無料動画オンライン学習サービス「schoo」をスタートさせています。
また、Youtubeでも好きな時間に好きな場所でいろいろな授業を見ることだってできます。
もうドラえもんはすぐそばにやってきているんですよ。
学校教育を否定したのではなく、「学校とはそういうところ」だ
すでに既存の学校だけでは対応できなくなっている今、子どもだけでなくて大人も含めて「学ぶ場」というのはいろいろできているんです。
自分がやりたいことをするために必要だから学ぶという時代になり、そのための環境もあるのですから、自分の学びのスタイルによって選んだらいいんです。
教育だっぴのトークテーマ「学校とはどんなところ?」について、私は「学校とは与えられたことをこなすところ」と答えました。
これは学校教育を否定したのではなく、「学校とはそういうところ」だと考えているという意味で、それはそれで役割があるということです。既存の学校システムというのはコスパを考えたら合理的な仕組みで確かに便利ではあります。しかし、それですべての子どもに対応するのはどう考えても不可能なんです。
それを承知で学校に行ったらいいのですが、行かせる保護者も学校に過大な期待をしてそれに対応できないと「ガッコーはもっとちゃんとしてほしい!」となってしまう。学校は学校でなんとかしようと無理をして、できないのにできる振りをしたり、ウソをついてごまかしたり、あったことをなかったように隠さなくてはいけない、そうしなくちゃいけなくなってしまう。
それがいろいろな問題や事件が起こってしまう要因でもあると思います。
学校には限界があること、学校にできることもあるけどできないこともたくさんあるということ。それをみんなが認めることができたら、学校ももっと楽になるはずです。先生たちも学校だけで抱え込まないで、隠さないで「これは困った、だれかできる人頼みます。」っていうことができたらもっと仕事量を減らすことができます。
「行政がお墨付きをつける」とは?
参考までに法律も載せておきますが、「この内容もかなり無理してるんじゃないの?」って感じませんか?
なんだかパーフェクトな仕組みを作ろうって気がしませんか?
もちろん、この目標に向かって努力することが必要なわけですが、国や地方公共団体は総合的な調整役、コーディネーターとしての役割をして、その実行は各々の強みを活かしてつないでいくというやりかたの方が取り組みやすいし、実効性もあるんじゃないかなあって思います。「行政がお墨付きをつける」っていうのも、「いいよ、それでやったら。」という意味なんではないかと思います。
●教育基本法第四条(教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、「その能力に応じた教育を受ける機会」を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 「国及び地方公共団体」は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、「教育上必要な支援」を講じなければならない。
3 「国及び地方公共団体」は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、「奨学の措置」を講じなければならない。
つまり、「すべての子ども(国民)」には「学ぶ権利」「学ぶ自由」があります。
「国及び地方公共団体」には「すべての子どもが学べる環境を整える義務」があります。
このように、法律でちゃんと定められています。
ホリエモンが義務教育に感じる「ずっと同じ人と同じコミュニティにいるヤバさ」
●「schoo」