やれやれ卒業したと思ったら次は入学式が待っています。
この季節、進学は子どもも不安です。
小6と中3のこの季節は最も不安が大きいときです。
この時期に親のできることは、子どもを「信じて、見守り、待つ」こと。
進学で悩むのは、「こうすべきである」「こうあらなければならない」という「押し付けられた社会習慣」によって生じているものなので、「自分は自分」だと自分で決めたらいいのですが、実際はそのように割り切って考えることは難しいですよね。
そこで、今一番苦しんでいるのは子どもだということを理解し、無理に次の進学先に押しやるような言動はやめてほしいです。
親のできることは、子どもが決めるまで、何かを選ぶまで待つことです。
子どもが本当にやりたいことが見つかったときは、自分で動き始めます。絶対に自分で行動し始めます。
それまでは親も辛いですが、あれこれ指図をしたりレールを敷いたりすることは子どもの可能性を親が止めてしまうことになります。
「やりたいことがない」というのは、やりたい自由を与えていないから、親が勝手に決めてそこへ無理に向かわせようとするからです。
学びたくない子は一人もいません。
向上心のない子も一人もいません。
ないのではなく、まだ見つかっていないだけ、新しい環境で新しい出会いも待っています。
その出会いが親も子も自分のやりたいことを見つけるきっかけになることだってあります。
親のできることは、子どもを「信じて、見守り、待つ」ことです。
ですが、ただ何もしないで待つのではありません。
子どもが「やりたい!」と決めた時のために準備できることをして待つことですね。
そのとき、「やりたい!」と決めたことを絶対に否定してはいけません。
学校へ行かないこと、進学しないことが問題なのではありません。
「学校へ行かないといけない、進学しないといけない」という”考え方”が問題なのです。
行きたい、進学したいと思える学校がないことが問題なのです。
さらに、12歳になったら中学校、15歳になったら高校という考え方もおかしなことです。
まあ、学校へ1日も行かなくても15歳になったら中学卒の資格は自動的にとれますが、別に何歳になっても高校進学はできます。
どこで何を学ぶかは、子ども自身が決めることなんですから、学校へ行くとか進学するとかは関係ないんです。
「学校へ行く」という選択肢も「学校へ行かない」「学校以外のところで学ぶ」という選択肢もあるということです。
だから、入学式にも出なくていいし進学先の学校へも行かなくてもいいんです。
そう考えたら「不登校」という言葉がいかに意味がないかということが分かります。
あらゆる機会であらゆる場面でいかに「学校信仰」に洗脳されているかが分かります。「不登校」という概念も学校信仰に基づいた定義付けです。
不登校のまま中学へ進学する娘。そのとき、親はどうあるべきか
不登校のまま中学へ進学するとき、親はどうあるべきか
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執筆者:azbooks