ボクが教員を辞めた理由のひとつが「やらされ感満載」だった。
「やらされ感満載」なのは運動会だけじゃない。
入学式から始まり、学習発表会、参観日、遠足、文化祭、卒業式、授業、学校行事すべてが「やらせ」。
自ら学ぶのではなく「見せるため」の形を整えるもの。
「見せるため」に何度も何度も練習する無駄な時間。
教員対象の授業研究会まで「やらされ感満載」の授業。「見せるため」の授業。まるで「研究会ごっこ」。
子どももやらされ教員もやらされ、やっつけ仕事だらけの一年間。
その目的は評価をつけるため。
不適切保育、不適切指導、そのすべての要因は「やらされ保育」「やらされ教育」にある。
〇〇させようとするからそこに強制が生まれ不幸を生んでいる。
つまらん
つまらん
こんなつまらん毎日を過ごすのかって。
楽しかったのは企画から実施まですべて子どもたちに任せてやったこと。
子どもたちと一緒になって考え楽しみながら造りあげたこと。
結果も評価も気にしない、そんなこと関係ない。
ただただ今が楽しい、自分たちがやりたいからやる。
楽しい、ワクワクするのはぶっつけ本番のライブ感だ。
評価もいらないテストもいらない通知表なんて必要ない。
今このようなことができる学校ってあるのだろか?
教員の仕事っていったい何なのだろうか?
与えられた作業をこなすこと?
言われたことに従うこと?
言われたことに従う子をつくること?
これを「学校」というのならこれほどつまらないところはない。
だからボクは学校を辞めた。
だからボクは学校を辞めて自営業を始めた。
自由な場を創った。
そのスタイルが一番自分に合っているから。
なぜ小学校の先生を退職してまでこのような活動をしているのか?
自由で子ども主体の学びや場は「学校」とはいわないのだろう
年々学校に対して「No!」という子が増えている。
その理由は様々だと思うし、それを問題だと考える人も少なくない。
しかし、ボクはそれはいいことだと思っている。
強制されること窮屈な枠の中に入れられることに「No!」ということは「人として」まったく正常な行動だから。
おかしいこと納得できないことに「おかしい」ということは立派な行いだから。
これからもそんな彼らが自分の足で自分のやり方で自分の道に進むことを応援していきたい。
保育も教育ももっともっと自由であっていい。
そういうと、教員の数が足りないとかそんな力量がないとかいわれる。
しかしそうじゃない。
どれだけ子どもを信じられるか任せられるかの問題だ。
最も問題なのが「やらせること」が多すぎること。「やらせること」を止めてもっと子どもたちに任せれば教員のやることも減らせる。
「やらせること」を止めること教員の意識を変えることで自由な学びは可能になる。
でも多分、このような学びや場は「学校」とはいわないのだろうなあ。