ボクもまったく同意見です。
孫たちを見ていると何もしなくても自ら知恵を身に付け日々成長している姿がそこにある。
「赤ちゃんは誰も教えてないのに、ハイハイをはじめ、つかまりだちをして、ひとり立ちをして、歩いて、言葉を覚えていく、そうやってヒトは成長していくのだから、赤ちゃん期をすぎたって、必要なことは必要なタイミングで身についていく」
「基礎学力”生き生きと探求する心”も生活の(生きていく)中で自然と身についていく」
「生き生きと探求するには安心と寛ぎの場が大切で、ジャッジとコントロールの場ではそれは実現できない。」
つまり、今の公教育という学校の場はこれと全く正反対のことをしているのだと言える。
だから、「上からの命令と都合によって強制される」学校という仕組みの中では子どもが子どもらしく生き生きと過ごせない、「人間」として成長できないように仕組まれているのだと、ボクは思っている。
だから、学校に行くとか行かないとかはたいしたことではない、むしろ学校にいくことによる「害」もあるということは、ボク自身の体験としてもはっきり言える。
子どもは何も教えなくても脳も身体も心も自ら成長していくのです。
大人たちのできることは子どもを100%信じることだけでいいのです。
だからなにも心配ない。
まったくだいじょ~び、だいじょ~び。
オオヌキ 瑠美子 2023年4月28日 ·
”不登校による学力の心配とか、基礎学力は必要でしょ?という話とか”
(長文です)
長女が小1の夏休み明けに学校に行かない選択(最近は時々行ってる)をしてから不登校児の母になり6年、実は学力という点で、1ミリも心配したことがない。
いや全くないというのは違うかもで、私が大丈夫だよと言っていても、みんなが標準的に知っていることを知らないことで本人が劣等感を感じる体験が起きたら嫌だな、という心配があるには多少ある(そんな感情が生まれたとしても越えられるという安心は持ちつつ)。
だけれど学力自体には全くもって心配してない。
でもこの点において、私のように学校以外の選択肢がある、ということを知っている人でさえ心配になることあがある、という事を知って、私の感覚を分かち合いたくなった。
なぜ私が心配してないかの根底は、
生きる上で必要なことは自然と、しかも喜びと共に身についていく、という命の特性があると感じるから。
そしてそのタイミングはひとりひとりのリズムがある。
赤ちゃんは誰も教えてないのに、ハイハイをはじめ、つかまりだちをして、ひとり立ちをして、歩いて、言葉を覚えていく、
そうやってヒトは成長していくのだから、赤ちゃん期をすぎたって、必要なことは必要なタイミングで身についていくというのがごく自然なこととして私には感じられるのです。
「勉強できなくても基礎学力は大切でしょ?」
という人もいますが、
じゃあ基礎学力って何ですか?
と聞くと、大抵の人は、
「読み書き算盤。」
と答えます。
読み書き算盤が基礎学力だとしたら、それは生活の中で自然と身についていくので心配ありません。
実際我が子も2人(小6、小2現在)一条校には通っていないけれど、2人とも読み書きと生活に必要な計算は教えなくてもいつの間にかできるようになってる、
15年自由なフリースクール をやってる人も、今まで文字を読めないで卒業した子はいなかった、と言っていました。
学校が無くて識字率が低いという国は、親が文字を読まない生活をしていたり、暮らす環境の中で文字が必要ない、ということだと思う。
今の日本において、文字は生活に必要なツールなでの、自然に覚えていくのです。
余談だけど、
つい最近まで長女は時計が読めなかった、
家にもアナログの時計はなくてデジタルの時計なので必要性がなかったから、
それが最近修学旅行に行きたくて学校に行くようになってアナログ時計を読む必要が生まれ「覚えたい!」となって、父親が教えたら、ものの10分くらいで覚えた。
一条校の先生の言葉を借りると、まず時計を読む勉強に「つまづく」」子が多いらしい。
小学1年生の脳では大変なことでも、6年生の脳では楽しく10分。一般的な尺度でいったら大分遅いけど、彼女にはこのタイミングだった。
きっと身につくには各々のタイミングというものがあって、それを見極めずに行ったら、子どもも大人も大変なエネルギーを消費しちゃうのだ。
さて基礎学力が大切だとみんな言うけれど、
基礎学力とは何だろう?
と自分に問うてみたら、
私にとっての学ぶ力の基礎は、
”生き生きと探求する心”
なぜだろう?
知りたい、やりたい、やってみたい!
ワクワクと湧く命のみちびき。
一般的に思われている基礎学力と、
私の感じる基礎学力はかなり違うみたい。
ちなみに10歳でブラジルから移住してきた私のパートナーは、来日した時日本語は0歳だったので、4年生の教室に入っても全くわからず、テストも名前だけ書けばOKな位置だったらしいので、高卒だけどずっと学校内フリースクール状態で育ち、勉強らしい勉強はほとんどせず育ったのに、
としおくんに聞けば何でも知ってる!とみんなに頼りにされるほど、大抵の仕事は何でもできて、とうとう家まで建ててしまった。
また、先日私の主催した対話会にゲストスピーカーとして来てくれた4人の子の母であるまきこに、会の中で、
「まきこは学力についてどう思う?」
と質問したところ、
「学力という数値は関係ない。」
という答えと共に自分の子供との体験をシェアしてくれた。
まきこの長男は保育園の時に、社会生活は送れないでしょう、と言われた、学校とフリースペースと家を併用しながら過ごし、定時制の高校に通った3年生の時に、大好きなサッカーをしたくて大学に行きたくなった、彼が自分のやりたいを叶えるために選んだ大学は、早稲田、立教、関西学院の3校、その時点で彼が定時制の高校で判断された学力は小学校3、4年生程度、周囲の孟反対にあいつつも、彼は入試を受けて、不合格、落ちたことで更に行きたい気持ちが大きくなり、一年猶予が欲しいとまきこに頼み、翌年には早稲田に合格した。30歳を過ぎた今は、冬は大好きなスノーボードを北海道で、夏は秩父でラフティングのガイドをして生活をしている。
そんな体験に基づく話を聞いて、私も自分の感覚が更に確信となった。
決して一般的な一条校の勉強を否定するものではない、
そこに子供自身の探求への歓びがあるなら、
設備があって、先生がいて、それが税金で賄われていて誰でも通える、というのは素晴らしいこと、
だけれど、
決して、
”学力は、その子の命にそった道と天秤にかけるほど重要ではない“
と私は感じる。
心底感じる。
生き生きと探求するには安心と寛ぎの場が大切で、
ジャッジとコントロールの場ではそれは実現できない。
みんなのためにみんなが必要、
そして、その”みんな”とは、
みんなと同じことが同じようにできることではなくて、
在るがまま、
唯一無二の自分の道を生き生きと生きるひとりひとり。
これが唯一の答えでも正解でもないけど、
こんな考え方をしている人がこの地球上にいる、
ということが誰かの貢献になれたら嬉しいし、
私はそんな世界に生きたくて今日も自分の道を生きている。