不登校になったきっかけはいろいろあるのですが、やはり学校でのいじめ、教員や友達、部活での関係が影響を受けていることが少なくありません。
例えばクラス担任や校長から
「嫌なものを避けさせて、学ぶ機会を失ってしまってもいいんですか?」
「このまま学校から逃げていると、社会に出ていくことはできないよ。」
「今逃げると、将来困るのはあなただよ。」
などと、心ない言葉を浴びせられている例もあります。
私はこれは教育的な指導だとは思いません。
これって、学校の環境を変えないまま子どもに責任を押し付けているとしか思えません。
子どもが出発点ではなく、「学校とはこうあるべきだ」ということが前提で、そこに合わない子を無理に入れようとしている行為です。
いろいろな理由はありますが、「なんとなく学校に行くのがいや」「自分でもはっきりした理由は分からないけど、学校に行こうとすると体調が悪くなる」というのが多いと思います。
学校が楽しいところだったら子どもは「学校へ行きたくない」とは言わないよね。
「学校へ行きたくない」といったハルくんのお母さんに担任の先生がこう言いました。
「“こう言えば学校を休める、嫌なことから逃げられる”ってパターンがわかってるんですよ。休み癖が付いてきてるんじゃないですか?」
「そうやって嫌なものを避けさせて、学ぶ機会を失ってしまってもいいんですか?」
「このままですと、息子さんは不登校になる危険がありますよ」
この先生、学校って嫌なことをするところだと思ってるのでしょうか?
嫌なことを我慢してさせることを本当にいいことだと思っているのでしょうか?
この先生は不登校は悪いことって決めつけてる。
嫌なものを避けて、好きなことをしたほうがよっぽど学ぶ意欲はつきます。
学校が楽しいところだったら、ハルくんは「学校へ行きたくない」とは言わないよ。
「楽しくないから行きたくない」と言ってるんだよ。
だったら、学校が楽しくなるようにするのが先生の仕事なんじゃないの。
子どもが「明日も学校へ行きたい!」って思える学校にすることが仕事なんじゃないの。
子ども自身が「ああ、よかった。これって楽しいな」と思えるようにするのが大人の役目なんじゃないの。
「いい子」に育ててはいけません!
ハルくんは「学校へ行きたくない」といって、ちゃんと自己表現しています。
木村さんも、自分の評価軸、確かな視点でものごとを見て、ちゃんと自己主張しています。
それが、ハルくんにとっての「正解」、それが木村さんにとっての「正解」です。
結論。「いい子」に育ててはいけません。
「いい子=大人にとって手のかからない子」、「親や教員のいうことをちゃんと聞く子=素直な子」、「決まりを守る子=正しい子」。
そんな子どもに育ててはいけません。
子どもたちは生まれた瞬間から大人の求められる人になろうとしてるんじゃないか、常に誰かと比較されて「いい子」になるように「しつけ」られているんじゃないか。
いつの間にか、育ちの中で周りの人に気に入られるような自分を作っているんじゃないか。
大人たちはそれが善意で、子どものためと思っていることが怖い。
そうやって、いつの間にか自己判断、自己決定、自己主張、自己表現ができない人間を作り出している。
他人に嫌われないことを最優先して自分を隠すような人間を作っている。
だから、「いい子」に育ててはいけません。
インクルーシブ教育っていわれるけど、なんだか形だけの方法論の議論ばかりのような気がしています。
システム作りがインクルーシブ教育じゃないと思います。
そもそも「学校でやらなきゃいけない」って考え方が間違っています。
「インクルーシブ教育」というカテゴリーや枠を決めること自体がおかしいと思いませんか?
別に「インクルーシブ教育」とか「アクティブラーニング」とか名称なんかなんでもいいから、そこに自由があること、他者への尊重があること、正解を決めないことが大事なんだと思います。
私自身、3歳の時にみんなと同じことをしないといけない保育園へは行きたくないと思っていました。
でも、当時は「行かない」なんて選択肢は選べなかった、いや選択肢が「行く」のひとつしかありませんでしたね。
何歳になっても自分のやりたいことは自分で決めたらいいし、嫌なことはやらなくたっていいんですよ。
学校とは何かに耐えたり訓練する場ではありません
学校とは何かに耐えるためにいくところでも、何かを訓練する場でもありません。
子どもが生きる力を学ぶところの「ひとつ」です。
生きる力とは、自分が考え、意思をコントロールし、判断し、決定し、表現し、行動する力です。
そのためには、心の土台部分に安心感、楽しさ、そして、自己の存在を認められているという自己信頼感を感じる必要があります。
これは、子ども自身が人との関わりの中で体験して感じるしかありません。
しかし、今の学校は本来の役目を果たしているでしょうか?
学校とは子どもに一方的に価値観を教え込まれる場ではありません。
「生きる力を身につける」という学校目標を掲げている学校は多いですが、それに向かって取り組んでいるでしょうか。
一面だけの評価で子どもを見てはいないでしょうか。大人の尺度による「できるかできないか」が全ての評価基準になっていないでしょうか?
もちろん、生きる力を身につける場は学校だけではありません。家庭、地域、いろいろな人やものとの関わりの中で身に付いていくものです。
しかし、今は子どもの暮らしの中で学校の占める部分が多いため、学校での立ち居振る舞いのほとんどが子どもを決定づけています。本来は親が責任をとるべきことまで学校には責任のない個人的なことまで学校へ連絡が入ったり、担任の責任まで追及されることも現実として起きています。
「学校信仰」「学校宗教」から目を覚ますべき
今の日本の学校教育は「信仰」としかいいようがないです。
学校へ行くか行かないかは本人が決めることです。
それは誰からも強制させられることではありません。
学校へ行きたい子は行けばいいし、行きたくない、他の場所で学習したい子はそこがいいんです。
だから、学校へ行っていない子のことを「不登校児童・生徒」と呼ぶこと自体が間違っています。
「不登校」というのは「学校信仰」「学校絶対主義」からつけられた、支配者にとって都合のいい言葉です。
不登校は問題行動ではなく、自己決定からくる行動のひとつです。
今では多くの人が使っていますが、無意識のうちに支配されているのです。
いいかげんに「学校信仰」「学校宗教」から目を覚ますべきです。
これ、学校だけじゃない。
「社会に出たらイヤなことを我慢しなくちゃいけない」って思っている人は結構多いです。イヤだと思っているけど周りに流された方が何も考えなくていいし楽だから、自己主張、自己決定、自己表現してる大人の方がむしろ少ない。
みんなと一緒がいい子、一人がいい子、いろんな子がいていいんですから。
それは、子どものころからそれをしてこなかったから。大人がさせてこなかったからだと思います。
社会と違って子どもは先生を選べない。教育委員会から「この学校へ行きなさい」といわれます。ですが、子どもには「普通教育を受ける権利」がありますから学び方も学ぶ場も子ども本人が自由に選べばいいです。そのために多様な学びの場を作っていく必要があります。
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