教育

義務教育といっても学校には必ず行くべきものではない、その義務は子どもに課されるのではない

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ここで「義務教育」について改めて考えてみたいと思います。
「子どもは学校に行く義務がある」のではなく、「すべての子どもが普通教育を受ける権利があり、保護者には普通教育を受けさせる義務」がある。
さらに「普通教育」の場は学校だけではありません。子どもには普通教育ができる「場を選ぶ権利」があるのです。そして、国や自治体には「普通教育の場」を作る必要があります。場をつくる義務と責任があります。
「学校には必ず行くべきものではない」のです。
私は「不登校=悪」という認識が嫌いです。というか、大きな間違いです。
このような考え方は、不登校に対しての偏見に満ちており、いろいろな理由と背景が合って学校に行きたくても行けない子どもも多い現状を理解せず、多様な価値観を認めようとしない教育者など、教育者失格だといえます。
私はこれまでもこのような考え方で、不登校の児童と接してきたつもりです。
(後で、対応事例も紹介しています。)
はじめに断っておきますが、「学校は行かないほうがいい」「学校には行く必要がない」という意味ではありません。
「学校が正義」「教育の場は学校にある」「義務教育は学校へ行くこと」という考え方自体が固定観念です。
世間一般も、大方がそのような考え方で凝り固まっています。
文部科学省の定義では、学校を年間30日以上休んだ場合「不登校」と呼ばれます。
しかし、それは学びのスタイルと違うということではありません。
これまで何度も言ってきましたが、学校行く行かないで定義すること自体が間違っています。
「子どもの学ぶ権利を保証するという」というのが本来の義務教育にも書いていますが、義務教育とはすべての子どもたちに普通教育を保障することです。「すべての子どもたち」にです。学校に行くのが子どもにとっての「義務教育」ではありません。
「義務教育」の「義務」について間違った考え方をしている人は多いです。「小・中学校は”義務教育”なんだから、義務である以上、学校は通わなくてはいけない」という解釈です。
しかし、この解釈が違うんです。
「義務教育」というのは、「子どもが学校へ行く義務」ではないのです。 実は、「義務教育」の義務は、大人の義務なんです。
「普通教育」を受けることは子どもにとっての「権利」であって、「義務」ではありません。子どもが健やかに学び育つように、「普通教育」を受ける権利を保障する義務は大人にあります。
「不登校の原因が親にある」という主張をする人には、「学校には必ず行くべきもの」という暗黙の価値観があります。
「学校には必ず行くべきもの」なのに行かせていないのは、「不登校の原因が親にある」という考え方です。

不登校の主要因は学校というシステムそのもの

学校教育の現場では、今なお大量生産・大量消費を前提にした集団教育がはびこる矛盾が生じています。
教育の多様性といいながら、それを画一的な学校という場に閉じ込めるのは、どう見たって無理があります。
今の学校システムが「合っている」子どももいるとは思いますが、ほとんどは忍耐と我慢を強いられています。
学校の教員もしかたなく子どもの指導に当たっている者も少なくありません。
教員自身の志とは真逆の方向で教育をしている者だっています。
これは、学校の教員のみならず、いろいろな職場での仕事でも同じことがいえると思います。
しかし、「教育のプロ」と呼ばれている職種の人間がそうであってはならない、というのが私の考え方です。
なので、校区制度に縛られたたった一つの学校に登校できないだけで絶望する必要はないです。これは、狭い範囲で物事を考えているだけで、本来の目的はもっと別の所にあるのです。
学校という存在意義の一番重要なポイントは「社会性を身につけて、将来自立するように成長すること」です。そのために、学習をしたり集団生活の体験を通して人間関係やコミュニケーション能力を身につけていきます。
そして、そのための時間と場所を提供してくれるのが学校であり、それが最も効率的、合理的に学べるのが学校、というだけの話です。
効率的、合理的というのも、現状では上の都合、学校教育システムの都合で設けられているのであって、子どもの要望や目的に応じて作られているのではありません。
残念ながら、「やらされている勉強」であって「やりたい勉強」をしたいから学校へ行っている子どもはほとんどいません。教員も、「やらされている教育」をしていて、「やりたい教育」ができている者はごく少数だと思います。

教育基本法では義務教育の場を学校に限定していない

そこで、「学校はどんな理由があれ行くべき場所である」という凝り固まった考えの人には受け付けられないでしょうが、私は本来の目的が叶えられるのであれば、別に学校でなくともいいと考えています。
この事実を知らない人は多いですが、教育基本法では義務教育の場を学校に限定していないのです。
しかし、現実は学校以外の場が整備されていないこと、学校に行かないと内申点などその後の進学の際に不利益があることが大きな課題です。
文科省も「学校以外の学びの場の重要性」を強調し、各都道府県教委に通知を出しています。
文科省が「学校復帰前提策」を廃止!全小中学校へ向けて通知

「教育基本法」のここがポイントです。

・国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、”普通教育を受けさせる義務”を負う。
・国及び地方公共団体は、”義務教育の機会を保障”し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下”その実施に責任を負う”。
一人ひとりの願いに合った場所、目的に到達できる場でさえあれば、そこは従来通りの「学校」でなくてもいいのです。
つまり、ゴールが同じであるならば、どのルートを辿っても同じ。最終的な形が同じになるのであれば、別に学校でなくてもいいのです。
だから、学ぶ場が学校しかないのは、子どもの普通教育を受ける権利の侵害だともいえます。
学校も本来の「学ぶ」に特化したものになればいいと思いますが、現状ではそこまでなるには時間も必要です。
だから、自由に学べばいいと思います。
もちろん、なりたいことやりたいことに資格が必要ならそれを取得する必要はありますが。

これが学校嫌いの子を産んでいる要因

今の学校は集団行動することが前提なのでみんなに合わせるために細かいルールが必要になります。学びよりも「みんなに合わせるための管理」が優先されてしまうのです。
実はこれが学校嫌いの子を産んでいる要因のひとつです。
本来は学びの要求は一人ひとり異なるので個別学習を基本としたら集団行動のための細かいルールは必要なくなります。
個々の学ぶ目的に対応したら集団を管理するルールは必要なくなります。
学校は集団行動が前提ではなく、学習することを目的にしたらいいんです。これが本来の「学校の姿」です。
実際には、教員が教えることをやめること、その上で学びのコースをいろいろ用意する。そのコースの中には教科書コースも作り、教科書を学びたい子にも対応できます。ただし、教員が教科書を教えることはしません。これが大きなポイントです。
個別のコースを作るとその数だけ教員が必要なのでは?という考えは不要です。
教員は教える必要はなく、個々の学びについていくだけなのです。
学ぶのは子ども自身です。そうしたら教員が評価する必要はなくなり、個々の学びに任せたらいいです。
学びが異なるので一斉一律な評価は意味がなくなります。当然テストや通知表なども意味がなくなります。
こんなことも「子どもの学びを考える勉強会」でやります。
子どもが不登校になったときこそチャンスなのです。

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