脱学校によって「不登校」という概念をなくすことができます。
学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」「学び」は成立します。むしろ、人々は自分で考えるようになり主体的な学び方、生き方ができます。
他者の顔色を伺い、空気を読む生きたかは学校教育に元があります。
今、コロナを理由にした仕組まれた差別や排除が多発していますが、その根本には学校教育があります。
環境破壊、官僚主義、全体主義もまた学校教育が産み出したものだといえます。
この本を全ての学校や図書館に置いて、課題図書にしてほしいです。
大学の教員養成課程の必須図書にしてもらいたいです。
学校という一律な枠は支配者が都合よく管理するため
試験も評価も何の意味もありませんが、それに縛られていやいや勉強することは害になるだけです。
学校という一律な枠は支配者が都合よく管理するためだけが目的です。
学びたい人が学びたいことを自由に学ぶ、自分の生きたいように自由に生きることが最も重要です。
また、コロナによって学校教育を見直すチャンスだとは思いますが、現実としてますます管理強化と強制力が強まっていることに危機感を感じています。
だからこそ、「脱学校」が必要です。
いじめの構造も学校教育が作り上げた
「脱学校」という発想ができる者は教員にはなれないし、教育行政に関わることもできません。
だから、学校教育関係者には「不登校」を解決することは不可能です。
というか、「不登校」なんて概念はないのに、学校関係者によって「不登校」が恣意的に作り上げられ子どもを序列化し、排除することが目的になっています。
いじめの構造も学校教育が作り上げたものです。
学校という制度をなくしましょう。
学校という制度に捕らわれている限り、人々は幸せになれません。現代社会は人間生活に本質的には必要のない無駄なモノやサービスを大量に生産して、かけがえのない環境を破壊し、滅びに向かっているのですが、そのような破滅的な生活を根底から支えているものこそ学校制度なのです。なぜなら学校制度こそが「無駄な需要」を必需品と勘違いさせる元凶だからです。人々は学校から供給されるサービスを消費することに芯から慣れきり、官僚制度に飼い慣らされて、本質的には自分たちでできることすらサービス消費に依存するようになってしまうのです。環境を破壊する無駄な需要への欲望と期待を根底から断ち切り、官僚的なサービス消費への依存から脱却しない限り、人類は滅亡します。そのためにこそ、学校制度は廃止されなければなりません。
仮に学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」は成立します。学校の代替となる制度についても、しっかり考えました。