どんなに苦しい状況にある子どもでも、だれが見てももう救えないと思える若者でも、彼らがその状況から抜け出す力も、そこから歩き出す力も、誰が与えるものではなく、その力はすべて彼ら彼女たちが自ら持っているのだ。支援者が与えるなどおこがましい。様々な困難がその力を引き出せなくしているだけなのだ。
じゃぁ、私たちにできることはなんなのか?
苦しいときはただそばにいる。本当に苦しいとき、言葉は邪魔になる。
辛いことを吐き出したいときはひたすら聞き役に徹する。アドバイスなど無用だ。
そして動きたいときは一緒に動いていく。
なぁんだ、誰にでもできることじゃないか、という人がいるかもしれない。
でもその通りなのだ。誰にでもできる。寄り添うこと、伴走することは誰にでもできることなんだ。
(引用元:中野 謙作さんのFacebook)
中野さんとまったく同意見です。
私の信条も「信じて、見守り、待つ」そして「ありもままの姿を認め」「いっしょに喜ぶ」です。
支援するとは「何かをさせる」ことでも「してあげる」ことでもない。
「苦しいときはただそばにいる。本当に苦しいとき、言葉は邪魔になる。辛いことを吐き出したいときはひたすら聞き役に徹する。アドバイスなど無用だ。そして動きたいときは一緒に動いていく。動きだすチカラは自ら持っている。」
では、この「誰にでもできること」がなぜできないのか?
これまではここがまったく考えられてこなかったような気がします。
この「誰にでもできること」がなぜできないのか?
周りの人たちは、何らかの動きをしないといけない、方向性を示さなくてはいけないなど「なんとかして解決策を探して伝える」ことが役割だと思っていることもその理由のひとつです。
行政支援の問題点もここにあって、だから「相談しようと思わない」のが当然だといえます。
ただそばにいる、ただ聴くだけ。それがベストなんですがね。
そこを深めていきたいです。
学校に行けない子を持つ気持ちは経験したものにしかわからない
本当に近しい存在、一番応援してくれそうな人(夫とか父母)にも、理解されない「まさか」の経験をして、ますます社会との接点を避けがものすごく真剣に、ものすごく真剣に、不登校のリアルを知りたい!と思っていただける経験が、実はあまりありませんでした。
興味本位に、質問攻めにあうこともなかったかも知れません。有ってもどこか攻め口調だったかも知れませんしね。
「大変そう」「かわいそう」って思って遠慮しているのでしょうか。
何事もなかったかのように接されるのは楽だけど、どこかに虚しさも感じる。
元気そうに見えるかもしれないけれど、気持ちを切り分けているだけであったりもする。
根拠のない理由で、「大丈夫」にされるのも複雑。
やっぱり、学校に行けない子を持つ気持ちは経験したものにしかわからないのだろうと思う。
なぜ、「毎朝学校に電話するだけ」のことが辛いのか?
なぜ、そこまでの罪悪感を感じるのか?
なぜ、子どもは何故外出を拒むか?
なぜ、昼夜逆転してしまうのか?
なぜ、親は外出するのが難しくなるのか?
これ等の答えはわかるでしょうか。
それは・・・
「そんなこと」と思われることがわからなかったり、「簡単」と言われてしまうようなことが出来ない苦しさや、テンポよく周りと合わせられないことが、罪悪感となり、身体がプレッシャーを一心に感じて、余計に動かなくなる。
本当に近しい存在、一番応援してくれそうな人(夫とか父母)にも、理解されない「まさか」の経験をして、ますます社会との接点を避けがちになる。
それが答えです。
対処や対応方法のマニュアルよりも、気持ちをわかって欲しい。まずはそこからです。
(引用元:イクミナルのFacebook)
まったくその通りですね。
自分の思いを共感してもらえる。
不登校の状態をどうこうさせようとしなくても、それだけで自己決定して自分の道を見つけていきます。
「不登校の解決」って、誰かに何かをしてもらえることでもノウハウや対策が必要なのではなく、ただただ共感することが大事なんです。
本人の思いを聴くこと、それを100%受け入れることが信じるということです。
これまでの不登校対応で最もできていないことが100%共感すること、信じることです。
これは、教育行政、学校、保護者、関係者などすべての周りの人たちにいえることです。
学校に行けない子の気持ちは経験したものにしかわからない。
だから支援者には経験者がふさわしい。