学校に行くか行かないかで子どもを評価していることが子どもの自己肯定感を失わせています。
親がどんなことがあっても「あなたはあなたのままでいい。今のあなたでいい。」と心底思うことができたら、子どもも「自分は自分のままでいい。今の自分のままでいい。」と思います。
ありのままの自分を受け入れて認めること、それが自己肯定感です。
「できた自分」「優れている自分」になることで感じるのではなく、「そのままの自分」を認めることが自己肯定感です。
今生きていること、今自分がそこにいること、何かをしているからいいのではなく、そこにそのままいることがいいんです。
そこにいるだけで十分なんです。
何度でもいいます。
学校に行くか行かないかで、子どもの人生が決まるわけでは決してありません!
人生の途中でいくらでも何度でも別の道を選ぶことができます。
学びの選択肢はたくさんありどれを選んでも正解
・学校に行く
・学校以外のところに行く
・家の中で過ごす
・家の外で過ごす
このどれもが対等な選択肢です。
どれがよくてどれが悪いというのではありません。
子どもが学校に合わないのではなく、学校が子どもに合っていないのです。
子どもにとって最適な方法が最良の選択
学校が子どもに合っていないのに、そこに無理やり押し込めようとすることがどんなことか分かりますか?
だとしたら、何をすればいいのか答えは出ています。
だから、大人はそれに向かって努力していく必要があります。
それは、できないことを頑張るのではなく、自分のできることを少しでも行動に移していくことです。
このどれを選ぶかは本人の自由で、本人が決めたらいいんです。
学校に行っている子がいい子で、行っていない子が悪い子ではないんです。
子どもには学校へ行く権利も学校を選ぶ権利も学校へ行かない権利もあります。そのどれを選んでもいいんです。
日本ではすべての子が15歳の3月になったら、行っても行かなくても「中学校卒業」と認定されます。そして、そこからどの道を選ぶかも本人の自由です。
大事なことは、「自分をどう生きているのか」
さらに、どこの学校に行っているかでその子の評価が決まるものでもありません。
大事なことは、「自分をどう生きているのか」であって、学校・学歴や職種や肩書きで人の評価をすることが間違っています。
そのときに周りの人のできることは、どんな決定であっても本人の決めたことを最大限尊重して応援することです。
どんなことがあっても子どもと関われていることに感謝です。
そして、教育効果をどのように見るかということが大事ですね。
文科省が決めたこと、上からの命令に素直に従うがんじがらめにされた教員が評価される。全国学力テストの成績や有名大学の合格率で学力を評価している段階で、もうアウトでしょう。
教員も限界を感じ、これでは教育効果は見込めないと分かっていて毎日子どもと接しているのです。
これではなんの価値もありません。
それを多くの教員はおかしいと思っていますが、その意思表示も行動もできません。そんな勇気もエネルギーも持っていません。
だから、与えられた枠の中でなんとかしようとしていますが、本質的な改革にはつながっていきません。
嫌なことを我慢することを強いられ、それをよしとする社会風潮もおかしいです。
何のために学校へ行き、何のために勉強をするのか分からない、つまらない授業を毎日毎日じっとして聞かされる学生はたまったもんではありません。
「学校へ行きたくない」という子どもたちはそれを訴えているんです。
強制され命令されて動かなくてはならないことに対して自分の意見を主張しているんです。
だとしたら、私たちが何をしなければならないか明白です。
理不尽な社会構造に自分を合わせる必要はない
今の日本社会の構造的な欠陥が放置されている、国民がなにもできないのも元はといえば教育システム。それによって社会構造が固定化されています。そこから外れる人間は非難されるのがこの国の現実です。
しかし、そのような社会構造に自分を合わせる必要はありません。
だから私は子どもたちの選択肢を作ることにしました。
学校を取り巻く様々な問題が後を絶たないのも、そのシステムが崩壊していることの現れですが、それを改善するどころかそれを認めようとしない、多くの人はしかたがないと諦めています。
自分にとって得にならないことは皆がしたがりませんからね。
「学校へ行きたくない」という子どもたちは諦めないで毎日それと闘っているんです。
言いたいことは、学校にも限界がある、できないことがあることを認め、だったら何が必要なのかそれをしていくことですね。
急増する不登校「学校に行きたくない」と言われたときに、親にできること