熊本日日新聞での連載の苫野一徳さんの「くまにち論壇」を読みました。
「自由を奪うスタンダード」というタイトルで、教室での規律や授業の進め方が画一的なものになっているということを取り上げています。
先日の熊本日日新聞での連載「くまにち論壇」。今回の記事は、これまでで最も反響をいただきました。ぜひ、多くお方にお読みいただけると嬉しいです。 pic.twitter.com/eon4sLhgjf
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2018年11月20日
こんな教室や授業ではつまらない。
面白くない。
まったく楽しくない。
学校ではこんな教室を作るために、授業研究に何時間も使っています。そのために児童生徒を早く下校させて夜遅くまで指導案を作り、事前検討会でその内容を一字一句いちいち突っ込み合っています。
授業が終わると事後研究会では児童の姿勢や手の挙げ方、発表の声、反応が揃っていることなどが評価の対象になります。
授業内容についてよりも「規律」がきちんとできているかが優先されるのです。
しかも発言するのはごく一部の教員のみ。
さらに「研究校」に指定されたら1時間の授業のためにそれが何回め続けて行われます。そしてその後には誰も読まない、使われない分厚い「研究実践記録」を作ります。それを作ることが研究会の「成果」学校の「実績」になるのです。誰も読まない、使われない、ただ作るだけのものに膨大な時間と労力を費やしています。
この時間を明日の授業準備、児童生徒と遊ぶ、保護者との対話に使ったらいいです。
早く帰ってゆっくり休んでもいいです。
私が教員のときは正反対でした。
面白くて楽しい授業をしたら、児童は授業に集中します。姿勢や手の挙げ方などはどうでもいいことです。
私が一番覚えていることが、校長から「ちゃんと手を挙げて発表させなさい」と「指導」されたことです。でも児童たちは発表したいときはお互いに譲り合って発表していました。他の児童の発言を聞いた上で自分の考えを発表していました。手を挙げる必要はなかったのですが、校長の指導が入りました。
授業研究会では、いかに他の教員と違うことを言い、違うことをするかばかり考えて発言していました。
多様な学び、考え方を学ぶ授業とは何か?
そのための教員の役割、すべきことは何か?
授業は毎時間がライブです。児童の反応を見ながら展開していきます。だから面白いのです。
「明日の授業はどんな仕掛けで子どもたちをビックリさせようか?驚かせようか?」
こんなことばかり考えていました。
みんなが同じ方法で同じことをさせることがいいとは思いません。
教員一人ひとりのオリジナリティこそが大切だと思いますけどね。
あぁ、つまらん、つまらん。
なぜ学校の無駄な時間を過ごしたり無意味なや指導をしなければならないのか?
この他にも学校の無駄な時間や指導はたくさんあります。
それを削ったら児童生徒も教員ももっと楽しくなります。
教員はもっと考えるようになるし、主体的な子どもを育てることができるようになります。
学校というところはみんなを一斉に何かさせること、みんな揃って同じことをさせるのが好きなようです。
他の人と違うことをしようとすると止められる、「みんなに合わせなさい」と言われるところです。
だから、ちょっと変わってる子や集団行動が苦手な子、一人でいるのが好きな子にとっては居心地がよくありません。
それが居心地がいい人たちもいるようですが。
「みんなちがってみんないい」「みんななかよく」「みんなのために、ひとりのために」というのは、教室を飾るためのただの紙です。(と、私には見えます。)
学校はいろんな子どもたちがいるから面白いんです。
社会もいろんな人たちがいるから楽しくなるのです。
みんながちがうから、一人ひとりに価値があるのです。
「みんなちがってみんないい」んだから、うちの学級ではそれを実行して目指していたのですが、上から「みんな同じにしなさい」と言われるんですよね。
でも、そんなこと無視していたので個性的な学級集団で面白かったですけどね。(笑)
「自由を奪うスタンダード」苫野一徳さんのFacebookより
熊本日日新聞連載「くまにち論壇」(苫野一徳Blog)