「不登校」は「学校に行くのが当たり前」だという学校側、支配する側からの子どもを見下した言い方、「否登校」は子どもの側から見た「学校を選ぶ自由」「学校に行かない自由」だという表現。
「登校拒否」も子どもの側からの主張。
つまり「不登校」とは子どもの声を聞いての表現ではなく支配する側が勝手に決めたことであり、「不登校対策」も子ども本人の思いや考えを聞いた上で実行されたものではない。
だから教育行政はいつまでもいつまでも「不登校の何が問題なのか?」がわかっていないから、なんでもない「不登校」が「問題」にされてしまう。
だから教育行政のやっている「不登校対策」は子どもの課題とはかけはなれた内容になってしまう。
だから子どもの側の課題はいっこうに解決にはつながっていかない。
選択権は学校でも教委でもなく子ども本人が持っている。それを行使して実行したらいい。
何度も言うけど、それは学校にだけ行くことではない。
いつどこで何をしても何を学んでも自由であり、どこからでも成長できる。
そもそも「登校」という言い方が上から目線。
「通学」でいい。
「不登校」ではなく「否登校」が増加 時代の変化に対応するベネッセ通信制サポート校「Be 高等学院」2025年開校
学校を変えようという動きについて
社会構造を変える、学校システムを変えるなんてこと考えなくていい。
学校に行きたければ行けばいいし、行きたくなければ別に行かなくてもどうってことない。
学校に行って無駄なことをそうすればいい。学校に行かなければ自分の好きなこと学びたいことができる時間がいっぱいできる。
「学校がまともだ」という前提に立っているから、「学校へ行っていない自分はおかしい」なんて悩み方をするんだ。おかしな社会のなかで、大人たちだっておかしくなっている。学校制度を否定して、別の生き方をしようとする人もいるけど、それだと面倒くさいことが増えてしまう。
だからみんなもっと自由に生きたいように生きたらいいんですよ。
「ふつう」とは何か
「“ふつう”の人生」を語る危険
大卒者が想起する所謂「ふつう」の進路は、「中学校卒業後は高校に進学し、4年制大学を4年で卒業して、正規雇用で同じ企業に勤め続ける」かと思います。しかし、実際にそのような「ふつう」の人生を送ったのは1000人中の163人でした。もっとも、大学進学時の浪人や大学在学中に留学して卒業を伸ばした人などを含めればもう少し増えるはずですが、それにしても「みんな」の進路ではないことは明らかです。
私たち一人ひとりは偏った人生を送っています。出身家庭のSES、出身地域、性別という3つの観点で社会全体の分布と同じような友人がいる人は少ないはずです。教育とか社会のあるべき姿を語るとき、それはこの社会を生きるすべての人が対象となっているはずです。で、あれば、社会全体を対象にしたデータに基づいて議論しないと、的外れになり得るわけです。