いろいろな会に参加して思うのですが、なんだか、「させたい、させよう」支援が多いような気がします。
親や関係者が勝手に決めたゴールに向かわせているのではないか?
なんとかして社会の一員に当てはめようとしていないか?
狭い範囲内での条件付きでの社会参加を求めていないか?
人は産まれた瞬間から、なにもしなくても無条件で社会参加している。いや、なにもしていないことはない。
だから、「してもらう支援」「してあげる支援」ではなく、本人がもっと自由に生きたらいいんだと思います。
社会の中に個がいるのではなく、自由な個が集まっている場が社会なんだから。
日本人って、生まれた時から所属意識がある。
どんな場においても個よりも所属先の方が優先される。
ただの「○○さん」ではなく、「どこどこの○○さん」「□□(職業や所属先)の○○さん」と呼ばれることが多い。
さらに、その職や立場を辞めてからもそう呼ばれる。
ほんと、変な国民だと思います。
支援の在り方にも学校制度と就労の仕組みの悪影響が
「させたい、させよう」支援が多い理由のひとつとして学校制度と就労の仕組みがある。
学校では、「自分がやりたい勉強」ではなく、教員が「させたい勉強やしつけ」文科省が「させようとしている勉強や決まりの押しつけ」、それに従うだけの児童生徒。そして、決められた通りに就活し一斉入社する。
これに疑問を感じながらも同調圧力に負けて長いものに巻かれて生きている。
それが正しいと思いこみ、ただ流されるだけ。
そんなことが背景となって「してもらう支援」「してあげる支援」が続いているのではないかと思います。
「してもらう側は「してもらう支援」を求めているし、「してあげる側」も「してあげる支援」をすることが必要だと考えている。ホントにそうなんでしょうか?
これは、消費者が欲しいと思っていないのに商品やサービスを売りつける構造と似ている。
学校は教育の押し売りはしていても、子どもたちのニーズを受けとることができていない
欲しくもないのに商品やサービスのアピールをして売っているのとおじではないか。
欲しい人に欲しいサービスを提供してこそ意味がある。
商品やサービス(供給)が先にあるのではなく、個々のニーズ(需要)が先に合って、それに応じたものを提供するのが正しいんだと思います。
しかし、現実の社会を見ていると、支援する側の押しつけ支援、自己満足になっていないでしょうか?
そうではなくて「自分がそうしたいから」するのでいい。
誰かのためとか、何かのやめとかではなく、自分がやりたいかどうかを基準にしたらいい。
最も大切なことは本人の思いです。
「支援をする側の目標が目的」の指導になっていないか
しかし、実際には支援者主導の指導になっていないか?
本人の思いの実現ではなく、支援という名の「支援をすることが目的」の指導になっていないかと思います。
そんな支援は本人にとっては迷惑にしかなりません。二度と顔も見たくないです。
助けを求めている人はがいる。こうしたいと思っている人がいる。
それを受け止めて実現に向けて行くのを支援だというのではないでしょうか。
とにかく監視されるようなことはやめてほしいです。
自由な学びをしたら社会参加はできなくなるのか?や「いい子」からいかに脱するか 自由であれ!にも書きましたが、もっとみんなが自分中心で生きたらいいと思うけどなあ。
はい、自分はそうしていますけど、それでいいじゃないですか。
あなたはあなたのままでいいんだよ。
ボクはボクのままでいい。
そう思うけどなあ。