この記事を読んで障害、病気、症状、治療、普通、常識について考えました。
障害とは?
障害の理解とは?
障害を治すとは?
めざすことは、障害があるとかないとか関係なしに、すべての人が「自分らしく」生きられる社会作りです。
これは他者が認めるとか評価するとかではなく、「自己実現できている」という自己評価です。自分の価値は自分の価値観によって決まるのです。
障害というのも絶対的なものではなく相対的、部分的なものですから、障害を総称としてとらえることには危険性が潜んでいます。ましてや「治療」というアプローチは間違っていると、私は思っています。
そのために障害となっているのが、社会的な偏見であったり社会の仕組みであったり、社会的障壁によって不利益を被っている現象を指しています。だから「治す」という概念が生じてくるのではないでしょうか。
それらを法律でも「社会的障壁の除去」と表現していますが、社会的障壁の除去することによって個人が「どう生きたいか」という自己実現をめざすことにつながるのであればよしとしますが、社会的障壁のある中では自分らしく生きていくことは不可能なのか?という思いもあったりします。
人は様々な環境や指標によって自己を決定しているのですが、それも固定的なものではなく個々によって異なることと考えればいいのですから、環境も指標も個に応じたものが提供される必要があり、それをお互いに認め合う関係性が重要になります。
そのために私たちにできることは何か考え、それを少しずつ実行していくこと。そして、一人ひとりが「生きやすい」世の中に近づけていくことです。
私も自分のことを「規格外」だと自覚しています。
というか、枠にはめられることが大っ嫌いなので、自分で好きなことをやっています。
対人関係でも好きな人もいるし嫌いな人もいて、無理にいい関係を作ろうとも思っていません。
これが、自分にとっての適材適所であり、生き方ですから。
学校でも職場でも「障害があるからどうのこうの」で語られることが多いですが、私はそうは考えていません。
障害者採用とか障害児学級とか、枠にはめ込むことにも疑問を持っています。
要は、適材適所で活躍できるかどうかが大事なのであって、障害の有無で評価を決めることが間違っています。
自分が好きなことや楽しいことなら「障害」なんか感じません。我慢することも求められません。
一人ひとりが違うのですから、それを一つの形にまとめることが無理なんです。
要するに、自分はどう生きるのか、どう生きたいのかの問題なんです。
この記事を読んで、このような理論的な整理をしていく必要もあるかなと感じました。
「障害」は治らないから障害なのだ ―障害者たちは救われるのか?
WHO国際障害分類試案の内容
障害の理解とは? 障害を治すとは?自分はどう生きたいのかの問題
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執筆者:azbooks