「不登校の解決」とは誰かに何かをしてもらうことでもノウハウや対策が必要なのでもなく、ただただ共感すること。
信用できるのは専門家の話ではなく同じ経験をした人の話。
共感できるのも専門家の話ではなく同じ経験をした人の話。
専門家のところに相談に行きたくない理由はそこに信用も共感も感じられないから。
人が相談に向かう、相談しようと思うのはそこに共感を求めているから、専門家の説明や解決案を求めているのではない。
自分の考えや経験に共感してくれる人を求めているから。
「今のままの自分でOK、そのままでOK」
「あなたはあなたのままで大丈夫」
それは同じ経験をした人でしか共感できないことだから。
自らの課題を解決する力はすべて彼ら彼女たちが自ら持っている。ましてや専門家や支援者がそれを与えるなどおこがましい。
解決案はすでに自分の中にあることに気づくことができる。
共感によってそれに気づくことができる。
国や自治体など行政の対応はそれとは真逆の方向を向いている。
「専門家」を何百人配置しても何も変わらない。
そこには理解も共感もないから。
だから何十年経っても何も変わらない。
「不登校の解決」とは誰かに何かをしてもらうことではなく、ただただ共感すること。
解決案はすでに自ら持っている。
だから共感によって自ら動き始める。
自分の道を歩み始める。
行政がよく使う「気軽に」って、全然気軽でも安心感もない
私の信条も「信じて、見守り、待つ」そして「ありもままの姿を認め」「いっしょに喜ぶ」です。
支援するとは「何かをさせる」ことでも「してあげる」ことでもない。
苦しいときはただそばにいる。本当に苦しいとき、言葉は邪魔になる。辛いことを吐き出したいときはひたすら聞き役に徹する。アドバイスなど無用。
行政がよく使う「気軽に」という言葉。
そこが気軽に行ける場所になっているか?理解ある場になっているか?
相当勇気を出して覚悟を持って行っているのに心ない言葉で追い返される。
そんなところには二度と行きたくない!