最近どういうわけか教員時代の夢を見ることがある。
それも毎回出てくるのは教室の風景ばかり。
自分では、ごくごく普通の平凡な教員だと思っていた。
まわり(管理職や教育委員会)がどう見ているかは別として、私自身は特別何のとりえもない、ごくごく普通のそこらへんの教員なのだった。
元々、子どもの頃は家の中にいることはなく、野山を駆け回って悪さばかりしていた。野山は「みんなのもの」だと思ってなんでもやっていた。当時作っていた秘密基地のあった山は今は大きな病院が建っている。あのとき埋めた宝物はどうなったんだろう?
もちろん文章を書くことなんか大嫌いで、作文の時間になると、校庭に走って逃げたくなるようなほどであった。いや学校を飛び出してどっかに行ってしまいたいほど嫌だった。
けど、我慢してじっと耐える、いやじっとしないで教科書にパラパラ漫画を描いて時間がすぎるのをただ給食時間になるのをひたすら待っていた。
担任していた3年生の女子に「センセ―、その漢字の書き順違うよ!」と指摘されたことも。確か「番」という漢字だったと思う。
あなたは、番という感じを「正確な書き順」で書けますか?まあ、当時から書き順やトメ、ハライなんかどうでもいいと思っていたのでまあいいけど。(これ内緒です。もう時効?)
だから、未だに漢字と計算は大の苦手。それでもいいと思っているので問題意識もゼロ。
そんな少年が、どうして書くことも仕事である教員になったのか。
これは話せば長くなるので、そのことはまた追々書いていくカモ。
ところが、不思議なもので、教員になってから書くことが嫌でなくなってきたのだ。といっても、自分が書きたいことを書くときであるが。
前にもこのネタに触れたのだが、「ガッコウ」というところには、子どもにも「宿題」なるものがあるが、教員にも山ほど毎日「宿題」がある。
子どもなら、次に日に「センセー、わすれましたm(_ _)m」といわれ、「オマエ、居残りセエ!」「明日、昨日の分もやってコイ!」と言われることもあるが、そんなこと無視すればいい。
で、すむのだが、センセーは、忘れたらどえらいことになる。
どんな「どえらいことになる」かというと、・・・・ホント、どえらいことになるのだ。
センセ―というお仕事は結構大変なのである。
話がそれた。
(何が?)教員になってから書くことが好きになっていった。
というのは、毎日の出来事を記録しはじめたからだ。
子どものこと、授業のこと、そして自分の振り返りである。
長いことセンセーをしていると、実に様々な出来事に対面というか直面する。
しかも、「突発事項」と呼ばれることも少なくない!
予想もしない(本当は予測はしてはいるのだが、)ことが起こったりする。
「センセー、センセー、 オシッコォ、ウンコォ。」
「トイレ、いっといれ!」
「そうじゃないってば、・・・ここに。」
「ここにって、・・・なにがぁ?」
「だ・か・ら。ウンコだってばあ!!」
「 ・ ・ ・ (^_^; 」
なんてことは、日常茶飯事といっていい。
下ネタ、上ネタ、ありありの世界。摩訶不思議な空間が「ガッコー」という場所なのだ。
「家に帰るまでが、遠足!」 (なんでえ~)
「音楽室のベートーベンは、見ている」 (なにを~)
「理科室の人体模型は、夜動く」 (んなことウソだろ~)
「音楽室のピアノは、シの音がない」 (なんでえ~)
「職員室は、遊び場じゃない!」 (なんで、せんせー、あそんでんのお~、おかしくってんの~)
などなど
『学校の常識は社会の非常識』って本当? って話をよく耳にする。
センセ―もそのことはよく分かっている。だけどそれが常識になっちゃうところ。
「現場のホンネの話」を聞いたあなたは、もう 黙っていられなくなる。
カモ?
というところで、導入はオワリ。
11月、ポッキーの日に学生主催のイベントがあるので、ちょこっと書いてみました。
センセーも子どもたちも、みんなが行きたい、楽しいっていえるガッコーにしていきたいですね。
きっとガッコーに期待していることや目指していることはみんな同じだと思うんですよね。
ても、お互いに立場が優先したり、バリアをはったり、変な気をつかったり。
そんなもの取っ払っちゃおうよ!みたいなことがテーマになるかなあ。
続きが読みたい人があれば、シリーズ化
するカモ?
読んでもらえたら嬉しいです。
塾を始めたのも、やっぱり勉強すること、いやあそぶことが好きだからなのかもしれませんね。
あの宝物、もうないよなあ?
社会の在り方、受け入れ方も変えていきたいですね。
摩訶不思議な「学校現場のホンネの話」を聞きたくないですか?
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執筆者:azbooks