合理的配慮やICT機器の使用については親の会でもよく話題に上がっています。
子どもは困っているけど、教員は困っていない?
だから合理的配慮の理解も対応もされないままになっている?
合理的配慮をすることが負担になっている?
「当たり前のこと」が当たり前にならないのはなぜでしょうか。
みなさんのところではどうですか?
以下、学習障害の子のお母さん、まゆさんのツイートを抜粋しました。
息子はiPadを手にしていろんなことに気づきました。
「僕はバカじゃなかった…僕はバカだから生きてる価値がないとずっと思ってた。死にたいと毎日思ってた。なんで誰も僕にもできる方法があるって教えてくれなかったの?」
自分が何に困って、どうすればできるかを夏休みの自由研究にまとめました。
同じクラスの子のママから「こんなことに困ってるとは思わなかった!」と。
宿題をiPadでしでいいという約束を取り付け、せっせと宿題してました。宿題を通して配慮を求めてました。
iPadの持ち込みに関して、いろんな方のご協力を得て交渉を重ねて持ち込みの許可をいただきました。
担任からクラスに「目が見えにくい人がかける眼鏡と、耳が聞こえにくい人がつける補聴器と、読み書きがしんどい人が使うiPadは同じようなものです!」と説明があったようです。
クラスのみんなは息子の困難さを実はよく理解してくれていた。
が、ある日・・・
先生から電話をいただいた。息子が授業中にiPadで怪しいことをしていたと…
先生にとってiPadは遊びの道具くらいにしかな見えてないことにショックでした。
ある参観日。その日の参観は道徳、授業で使うプリントを手に固まる息子…そのプリントは行書体で書かれてた。
全く内容を読み取ることができない息子は下を向いて45分座ってた。
いい大人が、なぜ頑張ってる子どもの足を引っ張るのか?
「どうせ無理…」「社会は厳しんだ!」「配慮なんてない!」なんて言葉で夢に向かって頑張る子どものやる気を奪うのか?
ある日、事件が起きた。
息子がトイレに行ってる間にiPadがなくなり、ゴミ箱から出てきたことを話してくれた。そして「学校に行きたいけど、学校が怖い…」と言って泣いた。
2学期の通知表の多くの部分に斜線が引かれていたことがショックだったんだと思う。宿題は全て出し、家庭科の課題も仕上げて出したのに、彼は評価すらしてもらえなかった。
読めなくても、書けなくても、夢も目標もあるし、そのために学びたいんだよね…
教育って大切よね…と思う。
(抜粋は以上です)
親の会などでも話をするのですが、教員にもいろいろな人がいますが、目の前の困っている児童生徒に対してなんとかしようという人がほとんどです。
しかし、なんとかしたい、できるようにしたいと思いながら、何をどうしたらいいのか分からないということもあります。
目の前のこと、明日のことが山積みで、スキルがなくてどうしたらいいか困っている教員も少なくありません。
だから、これまでの自分の経験でその場の対応をすることも多いです。
教室へのICT機器の持ち込みについても不安もあります。いつどのように使えばいいのか分からくて負担になるということもあります。
それを克服するためには、そのやり方、使い方を教える必要があります。そして、それを使うメリットを感じてもらう必要があります。現場の教員には新しいことを始める不安と負担感があることも知ってほしいです。
だから、教員の不安を取り除く必要があります。
その不安や負担の軽減のためにできることをしていく必要があります。
子どもも大切に、保護者も大切にするのと同じくらい教員も大切にしてほしいです。
そのためにも、関係者が情報共有をして共通実践をしていく必要があります。
情報共有と共通実践とはよく言われます。
しかし、そのような場の設定がありません。
講演会などの啓発は増えてきましたが、言いたいことを出し合って本音で話し合う機会はほとんどありません。
まずはそこからやっていく必要があります
今最も大きな課題がこれなのではないでしょうか。
とある、学習障害をもつお子さんを育てるお母さんの、学校での合理的配慮(iPad等の機器を利用すること)に関する覚書まとめ