僕は学校が嫌いだった。小学校も中学校も高校も、みんな大嫌いだった。
僕が通っていた小学校の教育目標には、「みんな明るく元気よく」といった言葉が並んでいた。
僕にはこれがどうしても許せなかった。
全員参加の「運動会」や「球技大会」は、当日の朝に吐き気が出るくらい嫌だった。ああいうのは体育会系の部活をしている人だけが楽しめる行事だ。
クラスで作った揃いのTシャツも大嫌いだった。なにが「団結力の証」だ。ひとりひとりの個性を殺す「死亡証明書」みたいなものじゃないか。袖に刺繍されたニックネームで呼ばれたことなんて、一度もなかった。
僕は決して学校の勉強が嫌いだったわけではない。僕が嫌いだったのは、「みんな」という言葉を免罪符に、「ひとり」の犠牲を強いる学校のシステムだ。
「みんな明るく元気に」といった、人間の多様性を否定しかねない教育目標は一刻も早く闇に葬って欲しい。
この世界は、さまざまな個性を持つ人が、それぞれの生き方をすることで成り立っている。
ひとりひとりが自分に合ったかたちで学び、働き、遊び、生きる。
大切なのは、互いを認め合い、強制しない事だ。
ひとりひとりが充実した暮らしをすれば、社会はきっと豊かになる。
自分が好きな事を「好きだ」と言えることは、とても素敵なことだ。
ひとりで過ごす時間はかけがえのない自由時間だ。
まったく同感です。
学び方も生き方も、100人いたら100通りあるのが当たり前。
学校教育目標は、人間の多様性を否定しかねない。
それが人間性まで評価されたらたまったものではありません。
画一的、一方的、一律的な強制は人間性を奪うことにつながる。
自ら事業を起こす雇われない働き方だってたくさんあります。
組織の中のパーツではなく、「個」として生きることに大いに賛同します。
一人でいる素晴らしい子です。
このような「僕」を育てていきたいですね。
「学校は刑務所みたいで嫌だった」
同じ勉強、同じ給食、休憩時間も掃除時間も決められている。同じ時間にみんなが同じことをする。
まさにぴったりの表現ですね。
日本では何もしなくても座っていたら勉強したことになります。
子どもにとっては苦痛でしかありません。
日本ではそうやって勉強嫌いの子どもを作っています。
学校に行った大人も勉強が嫌いになり、「勉強は我慢してやるもの」として子どもに強制しているのですから、ますます勉強が嫌いになります。
これが日本の学校教育です。
一番おとなしいのは、ものいえぬ教員じゃないでしょうか。
僕は学校が大嫌いだった。日本人は「みんな明るく元気よく」の呪縛に囚われている
ボクは小5のときに勉強はしないと決めた
今、全国で加熱しているオンライン授業競争、学習プリント作り競争。
学校の勉強だけが勉強だと思っているから、学校の再開を急いだりオンライン授業競争をするのだと思います。
この動きは、他県にテストの点数で勝つために教育委員会がやっている「学力テストのための受験対策授業」とよく似ていると思います。
今年度の学力テストは中止になったけど、教員や教委が優先してすべきことはそこじゃないと思います。
教育の本質とは何かという視点が全く消えている気がします。
今は勉強しようと思えばいくらでもできます。
「ボクは小5のときに勉強はしないと決めた。ボクは小5のときには詰め込みの勉強はしないと決めて、それ以来していない。自分の興味あることにだけ注力するようにしてきた。」
何が好きなのか、何をやりたいのか、一番最後まで必要とされるスキルはそういった意思の力
このままでいいの?「アメリカの教室」を通して、日本の教育を考える
乙武洋匡がオランダで見た子どもの伸ばし方
日本の教育、「皆同じでなければ」への違和感