全く同感です。
「みんなが錯覚すれば、その錯覚が世の中を左右する」
「いま『不登校気分』に陥らないことは、親にも子にも難しい。むしろ『不登校』こそ、世間をおおっている錯覚から抜け出すための最大の手立て」
むしろ、昔の学校の方が多様性に対して寛容だったと思います。
そして、それは教員の指導による寛容性ではなく、子ども同士、社会環境の中で育まれていました。
しかし、今の学校教育の中では多様性がどんどん認められなくなり、常に他者との競争による比較によって評価され、「失敗することが許されない」とても窮屈な空間となっています。
多くの人たちは「錯覚」を錯覚と感じないで、無理に無理を重ねてそんな学校や社会に向かって突き進む、錯覚した社会に合わせようとしていることにも気づいていない。さらに錯覚に気づいた人は「障害者」や「病人」というレッテルを貼られ、ますます社会から排除される。そこにも寛容性は存在しない。
その一方で「錯覚の恐ろしさ」を自覚し、それを訴えているのが「不登校宣言」をしている子どもたちなのです。
「学校」の周辺に、いまほど「学力向上」とか「学力保障」という言葉が蔓延した時代はありません。小・中・高・大という学校教育制度のはしごを順調に、より高く上れるかどうかが、その人の人生を左右するかのような空気が世の中をおおい、「学校」は学力を競って勝ち残るための手段であるかのようです。
現に学歴を確保してしまえば、身につけた学力はもう御用済みとばかり、剥げ落ちてもかまわれません。こうした「学力」が世の中を牛耳っているというのは明らかに「錯覚」です。でも、この錯覚の恐ろしいところは、みんなが錯覚すれば、その錯覚が世の中を左右するというところです。
こうしたなかで、素朴に「どうして勉強しなければならないの?」と言いはじめた子どもにとって、勉強は苦役となり、「学校」はむかしとはちがう意味で「エライ(しんどい)」ところになってしまいます。
いま「不登校気分」に陥らないことは、親にも子にも難しい。むしろ「不登校」こそ、世間をおおっている錯覚から抜け出すための最大の手立てだと開き直ったほうがいいのかもしれません。私たちは学校の意味をあらためて問う時代を生きているのです。