いじめ研究の第一人者・内藤朝雄さんが「発達障害という概念を強く疑わなければいけない理由」について書いています。
診断数が急増し発達障害ブームとも言える中、この概念をどう捉えればよいのか。
発達障害という枠組みには、どんなポジティブな側面があり、また問題点があるのか。批判的に考察しながら、新たな枠組みを提案しています。
現在の「発達障害」枠組みにおける環境調整という考え方は、環境に適合するように人間の内部を変えようとする従来の主要方針から、人間に合わせて環境を変える方向に向かう第一歩と考えることもできる。
筆者が子どものころ、戦前の日本を知る人から聞いた話に、こんなものがある。
「シャバ(軍隊以外の社会領域)では靴を足に合わせるが、軍隊では足を靴に合わせる」
この比喩は、そのまま学校と従来の精神医学にもあてはまる。
学校は本来靴と同様、一人ひとりちがう人間のためのものであるはずなのに、人間を学校に合わせてつくり変えようとする。
従来の精神医学も、これと同じ論理で人間(足)を学校(靴)に合わせてつくり変えようとする。
学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされることによって診断数が急増した。
「発達障害」という診断をし、人を「障害者」にすることによって過酷な虐待から保護するという斬新なひねりを入れた方法は、学校が合わない人に対して、「障害者」というレッテルを貼られるか、学校の共同体奴隷になるかという残酷で不当な二者択一を迫ることになる。
障害「者」という言い方はあるけど、障害「環境」という言い方はない。
障害のある「人」という言い方はするけど、障害のある「環境」という言い方はしない。
「発達障害」という枠組みも、個人の側に「障害がある」という捉え方になっています。
だから、個体の持っている障害を「治す」という概念が生まれます。
そこに、「発達障害という枠組み」に含まれるさまざまな問題が生じています。
それを改善するためには、一人ひとりをみんなと同じように訓練する、教育するのではなく、障害のある「環境調整」が必要なのです。
「合理的配慮」も個人を治すのではなく、環境調整をすることが目的です。
障害は本人にあるのではなく、社会の側にあるのですから。
いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由