「不登校」を否定的に受け止めるのではなく、むしろ、子どもにとって、その親にとって、肯定的な選択だといっていい。
いわゆる「ふつうの学校」に通っていない生徒たちの皆が、それぞれに個性的に、しかし主体的に人生を見つめ、「学問」を行なっている。
集団生活のならいとはいえ、同質性を要求し異端を「村八分」にしがちな「昔ながらの共同体」に通わせ続け、変なコンプレックスを子どもに抱えさせてしまうのは、本当に「ふつう」のことなのか?
ホームスクーリングもオルタナティブスクールも決して否定的な選択ではない、というのは、そういう考えがあるからです。
むしろ、「不登校」とは子どもにとって、その親にとって、肯定的な選択ではなかろうか。
「学校」という場での「集団行動」は、現在の日本では、ひとつ間違えば「個性」を殺す「同調圧力」としても働きます。
とはいえ、上記の一つ一つのことは、とっても小さなことです。
でも、それが3年続き、6年続き、そして中学生になっても続く。
子どもにとっての9年は、我々大人の20年くらいの感覚かもしれません。
そして、家に帰ると、親は親で色々うるさく言ってくる。
彼や彼女はだんだんと疲れていきます。人に合わせて笑うのに疲れていきます。
強いられた「集団行動」。
とてもとても、疲れる日々。