まったく同感です。
「不登校」も「発達障害」も大人の都合で造り上げられたわけで、なんの問題もありません。
そもそもそんな概念を造り出したことが大きな問題なんです。
10人いたら10人とも違う、100人いたら100とも違う。それが当たり前。
他者と違うことを問題視することが大間違いです。
みんな同じ箱、同じ枠の中に入れようとするから、みんなに同じことをさせようとするから無理が生じるのです。
皆同じ仕組みの中に入れようとするからおかしなことになるのです。
しかもその対応として相変わらずすべての子どもを無理な環境に適応させようと矯正する、問題はそんな間違った対応と環境なんです。
と、とらえることをすべてのスタート地点にしなければなりません。
しかし、今現在の取り組みはそこから間違っています。
一人ひとりに合った対応や環境作りはやろうと思えば今すぐ始めることができるのです。
子どもにとって学校は必要なのか?
子どもにとって必要なのは、学校ではない。
信頼できる人のいる安心して過ごせる場所なのです。
だから「自分らしく」生きて行けるのです。
子どもを無理して学校に行かせて無気力にするのか?
子どもが安心して好きなことに夢中になって過ごすのか?
どちらが自分らしく生き生き生きられるかは明らかです。
子どもにとって重要なことは、その関係性と安心して過ごせる環境です。
安全ではないところには近づきません。それは「自分を守る防衛本能」です。
子どもたちが学校に行きたくないのはそこに安心感がないからです。
学校は教育という「商品」と「サービス」を提供するところですが、その内容はどうでしょうか?
子どもだけでなく、教員にとっても学校はとても不自由なところです。
だから、公立校でも「私は子どもたちにこんな教育をしたい」「私の学校ではこんなことを学べます」という魅力ある商品とサービスの主張をもっともっとしたらいいと思います。
その最も大切なものが「安心感」です。
のほほーんでいいのだ。
誰もが世界でただ一つのかけがえのない人間。
結空間(ゆいくうかん)
基本、私はすべての人がギフテッドだと思っていて。
だって誰もが世界でただ一つのかけがえのない人間。
発達障害って言葉がはやっているけど、これほどいいかげんな物はないと思っていて。
脳が見られるようになっていていろいろ言われているけど、脳もみんな違うのですよ。当然。
人の使いどころが違うだけじゃないの?って。
当然、教育のやり方も違ってないといけないのに。
多様な教育の場がほとんどない。
問題はそこでしょう!
身なりから、進度から、何をするかまで決めるのって、今の時代に不適切です。
機械じゃないんだから「みんな一緒」はおかしいでしょう。
違っていてもみんな仲良くできる事が大切なだけですよね!
オランダの教育を始め先進国と言われる場所の教育を見て居ればわかる事。
世界から三周遅れの教育。
親がそれに疑問を持たず、学校という場所に所属することだけを望んでいては、子どもがつぶれてしまいます!
私は教師ではないですが、学童、放課後デイ、公立中学での支援活動、読み聞かせで多くの学校にも行っていました。
交通安全指導にも行っていたことも。
それらの経験の中で「多様な学びの場の設置」ほど大切な物はないと確信しています。
オランダでは一つの建物の中に三種類の学びの場があったり。
日本もそうしていいと思います。
建築費とか不要だから安くできるでしょ!
空き教室も多い中それの有効利用にもなりますし。
私が中学校につくった学校内フリースクールには小学校から不登校だった子なども来てたし、そこがあるならと戻ってきた子達や、その後教室に戻った子など様々な子が来てました。
そういう場を全国に作りませんか!