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障害者が「障害を強みにして、それを売りにしている」ということについて

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障害者としてではなくひとりの人間として付き合ってほしい

今日は琴浦町のまなびタウンとうはくであった「第13回 琴浦町差別をなくする町民のつどい」の南雲明彦さんの講演会に行ってきました。
演題は「ボク、学習障害と生きてます。 ~気づきから、理解へ~」
その前に、赤碕清掃の岡崎博紀さんの 「障がいのある人と共に働く」という実践発表もありました。
南雲さんの話を聞くのはこれで2回目ですが、とにかく明るく自然体。ときどき聴衆の反応を見ながら気を遣っていると感じたところもありましたが、聴衆を引きつける表現力というか「伝える力」に長けていると感じました。
彼は無意識でそうしているのでしょうが、これも彼の「強み」なんだと思います。
今日の話で印象に残ったのは、この言葉です。
「障害者のボクではなく、ボクという人間を見てほしい。障害のある当事者としてではなく、ひとりの人間南雲として付き合ってほしい。」
障害者と関わる場合に「失敗してはいけない」という遠慮もまた「障害」のひとつでも書きましたが、私自身も、日ごろ世間では障害者に対して気を遣いすぎている、意識しすぎていると感じていますが、「してあげる支援」ではなく、障害のあるなしに関係なく自然に接していけばいいと思う。
障害を意識しすぎて「正しい接し方」をしなければならないという気遣いや遠慮が自然な接し方の邪魔をしていると思う。
障害に気を遣うことはないということだ。
そして、南雲さん自身が「自分でこうしたい」という確かな意思があること、そこが重要な点だともいえる。
今日の講演を聞いて、これを再確認した。

障害者が障害を売りにしている

そして、こんなことを考えた。
「障害を強みにして、それを売りにしている」ということ。
「売りにしている」というと御幣を招くかもしれないが、ここではあえてそのような表現を使うことにする。
「障害者」(これは絶対的な表現ではなく、「健常者」との相対的な表現である)と呼ばれる人が世に出ていることについてだ。
世に出ているとは、「有名人」となって、テレビなどのメディアで取り上げられているという意味。
障害者が講演活動や書籍の執筆などで有名になり、さまざまなメディアで取り上げられているのは、ある種の「強み」であり、他者との「差別化」にあるからだろうだと感じている。
「障害者」の全てが強みを持っているのではなく、彼らにしか持ちえない強みがあり、それを「武器」にしているともいえる。
ただ単に「障害がある」というだけでは、このような取り上げ方も露出することもなかったはずだ。
これを「障害を(含めた彼らの強みや魅力を)売りにしている」という表現にした。
彼らは確かに自身の障害体験をネタにして表現活動をしているが、「障害がある」だけではなく何かの「能力」があるはずだ。
私はそのひとつが、表現力、伝える力だと考えている。
他者へ伝える表現力が優れているのだろう。
それは言葉だけではなく、彼らの立ち振る舞いや表情など、非言語も含む。
南雲さんの場合は、作家という一面もあり自分の体験や思いを売りにしているが、自分の才能を生かしている人もいる。
「自閉症の僕が跳びはねる理由」で一躍有名になった作家の東田直樹さん、ピアニストの野田あすかさん辻井伸行さん、書家の金澤翔子さん、「寝たきりだけど社長やってます」という本も出している株式会社仙拓の佐藤仙務さん、パラリンピック水泳選手の一ノ瀬メイさんなどがそうである。
ここで紹介した人たちは多くのメディアで取り上げられて、ほとんどの日本人が彼らの名前を知っているはずである。
彼らは障害そのものを売りにしているのではなく、彼らの能力を活かした表現活動や仕事を行っている。彼らは「障害者」と呼ばれてはいるが、「障害そのもの」を売りにしているのではない。
彼らは作家、ピアニスト、書家、会社社長、水泳選手という自分の能力を活かした形で自己表現しているのである。
しかし、メディアで取り上げられる場合は「障害者の○○さん」という前置きが必ずついており、私たちも彼らのことをそのように受け止めている。
「東田さんは会話のできない重度の自閉症なのに絵本や詩を書いている。」
「ダウン症の天才書家・金澤翔子さんが、全国各地で個展や奉納揮毫を開催。」
「奇跡の盲目ピアニスト 辻井伸行が、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝。」
などと、作家、書家、ピアニストの前に障害名が付いてまわっているのである。
彼らにとっては障害者であろうがなかろうが、彼らの能力や実績には関係ないが、常に「障害者」というレッテルが付きまとっているのだ。
また、このような見方もできる。
彼らが障害者でなかったら、はたしてこのような取り上げ方がされただろうかということだ。
私たちは「障害があるのに」「障害者でも」という見方をしていないだろうか。
メディアの取り上げ方も、「障害者なのにこんなことができてスゴイ!」となっているように思える。
彼らがスゴイのは「障害者だから」「障害者なのに」ではなく、彼らの才能や能力が素晴らしいのである。にも関わらず「障害」を売りに出すのはいかがなことかと思う。
彼らは障害を売りにしてはいないが、周囲の者たちによって障害をより強烈なアピール手段として利用してるのではないだろうか。
彼らの多くは本業以外にも各地で講演活動や本の執筆も行っている。
講演会の参加者や執筆した本の読者は、彼らの「ファン」となり、彼らの発信することに魅力を感じている。
彼らの体験を共有し、自身の生き方の参考にしたいという思いもあるが、多くの人はそれ以上のものを感じているのではないだろうか。
そして、最も強調したいことが、彼らはそれを「生業」にしていることである。
その内容が「障害体験」や「自身の思い」ではあるが、そこに「魅力」がなければ彼らのように「特別な存在」にはなれないはずである。
現在の彼らがあるのは、彼ら自身のこれまでの体験や自分の意思によるものが大きいとは思うし、彼らの能力も素晴らしい。
しかし、もしも彼らが「障害者」として生まれていなかったら、きっと違った人生だったに違いない。

障害者が自らの体験や思いを発信し始めた目的

インターネットの普及による個人メディアの発達によって様々な社会変化が起きているが、そのひとつが彼らのように「有名」ではない「無名」の障害者たちが自らの体験や思いを発信し始めていることだ。
ひと昔前であったらマスメディアでしか発信することができなかったことができるようになってきた。
それは誰から言われたことではなく、自ら「発信したい」「伝えたい」と考えてのことだという点を評価したい。
そこには、自分のことを分かってほしい、聴いてほしいという欲求があるはずだ。
世間的に見たら、障害は「負の体験」ではあるが、彼らはそれを「正の体験」に変換している行為だともいっていいのではないか。
では、自らの体験や思いを発信することによって何を求めているのか、何を期待しているのか?
それは、誰かの役に立ちたい、社会を変えていきたいという思いがあり、役立ち感や存在感、自己実現ではないだろうか。
人は「必要とされている」と感じることによって、自己の存在を確かなものにできる。
彼らの求めているのもここにあるのではないだろうか。
もし、現在のような発信のしかたや表現の場がなかったとしたらどのような生き方があるのだろうか?
このような「もしも」質問はナンセンスだと思うが、今日の話を聞きながら、正直そんな思いが廻った。
きっと、今日の彼らがあるのは彼ら自身も思ってもみなかったことであるはずだ。
彼らに障害がなかったとしたら、きっと「普通」の生き方をしていたに違いない。
しかし、彼らの今日の姿があるのは、彼らが自ら考え、決めて行動した「結果」であることは間違いのない事実である。

これから自分のすべきことはつながり支援

今日の講演の中で、小中高校生のころの先生の話が何度も何度も出てきました。やはり南雲さんにとって学校の先生との関係は特別なものがあるんだなと感じました。
「先生のそのときの対応は正しかったとは言えないと思っています。今考えると間違った対応だったと思っています。しかし、その時に一生懸命に関わってくださったことには感謝しています。」
講演というステージでどこまで本音が語れるのかということもありますが、「今の南雲さん」にとっての素直な思いなのかなとも思いました。
実際には学校や担任の対応が拙くて発達障害の二次障害が起こっているという事例も少なからずありますが、その時々で先生方も一生懸命に関わっています。それを知れば保護者の学校に対する見方も違ってくるのかなとも思いました。
しかし、理解と思いだけでは十分ではなく、やはり技術が伴なっていなければなりません。これは教育の分野だけではありませんが。
所々、話しの中で聴衆受け?を狙って南雲さんが盛っているなという感じはしましたが、自然体で語る姿には好感が持てました。
今回のつどいは13回になりますが、身近なところでの差別は解消されているとはいえません。被差別の立場にある人の人権侵害は依然として続いています。
差別意識をなくしていくには具体的な事実を「きちんと正していく」必要があります。集会は集会で意味があると思いますが、日常の中で見逃し諦めている人たちがたくさんいるのではないかと強く思いました。なので、建て前論でのイベントを繰り返すのではなく、そこにしっかり切り込んでいく必要があります。
差別意識をなくすには「思い」を変えるのではなく、具体的な事実をきちんと正していくことでしか成し得ません。
会の終わりの琴浦町人権・同和教育推進協議会副会長のあいさつの言葉が深く心に残りました。
そして、今後自分のやるべき役割も明確になりました。
岡崎さんの話の中にも出てきましたが、障害は居場所となる環境によって障害ではなくなり、その人の能力に合った働き方ができればみんなのためになり、みんなが幸福になる。人には誰もに強みがあり、それを活かす場と他者との関係性を作ることができれば、皆が「自分らしい」生き方ができるのです。
そして、自分がこれから目指すことは「してあげる支援」ではなく「つながり支援」であることも明確になった講演会でした。

『違い』は武器になる

障害を売りにしている人がここにもいます。
最強の障害者、最強のひきこもりです。
人は誰もが強み、売りを持っています。
最強の自分を持っています。
発達障害の作家・市川拓司さんが語る「『違い』は武器になる」

南雲明彦さんの本はこちら


LDは僕のID 字が読めないことで見えてくる風景 [ 南雲明彦 ]

治ってますか?発達障害 [ 南雲明彦 ]

僕は、字が読めない。 読字障害と戦いつづけた南雲明彦の24年 [ 小菅宏 ]

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