自分の頭で考えようっていうけど、わからんかったら人に聞いたらええ。答えを見たらええ。
がんばる人を応援するっていうけど、がんばらん人こそ応援したらええ。
いやなことや苦手なことから逃げたらいけんっていうけど、いやならせんでええ。苦手なことをがんばらんでええ。好きなことをしたらええ。
みんなと仲良くっていうけど、いやな人とは付き合わんでええ。ますます気分が悪くなるだけ、無視するのがええ。気分がよくなる人と付き合ったらええ。そしたら楽しいでえ。
自分の好きなように生きたらええだけ。
「自分を生きる」ってそうゆうことだで。
今やりたいことはがまんせんでやったらええで。
やりたくないのにやったらいけんで。
そのどっちも将来につながらへんで。
大事なのは今だで。
・自分の頭で考えよう
・がんばる人を応援します
・苦手なことから逃げるな
・がまんが人間を鍛える
・みんなと仲良くしよう
これって、どっかでよく見かけますよね。
はいそうです。学校です。
教室の前や廊下に貼ってあります。
こんなことさせようとするから子どもが不幸になるのです。
あと、卒業式なんかでよく言われる台詞。
「社会に出たら厳しい。自分の力で生きていかんといけん。」
よっぽど学校の方ががんじがらめで厳しいと思うけど。
学校を卒業して生き生きしている人の方が多いんじゃないの。
自分の力で生きていけるわけない。どんどん人を頼ったらいい。
「みんなで考えよう」は思考の品質が下がる?「集団浅慮(グループシンク)」と「悪魔の代弁者」について
なるほど!
これはためになる。
悪魔の代弁者か。
気心の知れた人達で集まって会議を開催すると、知らず知らずの内にその人たちの間で「今の私たちが持っている『雰囲気』や『秩序』を大切にしよう」とする意識が働くものです。
会議が進み、議論が一定の方向にまとまり始めると、そこで反対意見を出すことは「雰囲気や秩序を乱す」として、賛成意見以外を言いづらい雰囲気が形成される──といったこともあるでしょう。
一見「良案」にみえる意見においても、それが客観的に正しい、良いものなのかどうかよりも「和を乱さないか」であったり、「(まとまっていた話が)まとまらなくなってしまうのではないか」といった観点に重きを置かれてしまうのです。
こうしたケースは決して珍しいことではなく、例えば一部上場企業における役員クラスのミーティングにおいても、同様の傾向が見られることも少なくありません。
つまり、集団で考えているのにも関わらず、思考の品質が一向に高まらず、個人で考える際よりもかえって浅はかな思考に留まってしまうことは、往々にして起こりえるのです。
悪魔の代弁者とは、会議や議論の中で、多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割を担う人のことを指します。
「悪魔の代弁者」は、多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割を担う人と述べました。
そして、悪魔の代弁者は、私たちの議論をより正しい(望ましい)方向へと進めていくうえで大いに役立ってくれるというのです。
悪魔の代弁者は、単に多数派に反発するだけの存在であってもいけません。
重要なことは、集団の中でつい失われがちな客観性をもち、俯瞰的な立場から、議論している問題について多数派とは異なる建設的な意見を提示することです。
多数派の流れとは異なる意見が出れば、参加する人々は「今自分が指示している意見は、本当に正しい(適切)か」について振り返るきっかけに繋がり、また別の観点での意見やアイデアが出るということも起こりえます。