これは部活だけでなく、学校全体のあらゆることでいえます。学校に内部から、「これはおかしい」といったところで、その意見は伝わりません。それどころか潰されます。
学校というところは「出る杭」を最も嫌います。同調圧力がものすごい強いところです。
職員会議や担当者会議で発言しても取り上げられることはなく、発言者はその集団から「浮いて」しまいます。これが「学校の体質」です。
教員の学習会や研修会などで人権問題やいじめ対応について話し合いをしても学校現場では活かされない。会議をやること自体が目的でありゴールになっているためです。だから、研修会や会議をやったらそれで終りです。そして肝心な児童生徒への対応はそれとは真逆なケースが少くありません。その真逆の対応に異議を訴えると集団からは孤立化してしまいます。個人的な意見としてスルーされ、集団の掟が優先される世界なのです。
内部のことは内部の掟で処置されるのです。これがいわゆる「学校の常識は世間の非常識」と言われる所以です。
学校には職員集団の中でも対児童生徒の場面でも「学校の中だけで通用する掟」で処置されるのです。
これはどう考えてもおかしなことなのですが、「長いものに巻かれる」という典型的な社会が学校の職員集団です。
だから、ブラック部活の現状は変わらない。ブラック勤務も変えることはできない、いじめをなくすことができないのです。
その体質改善をするためには外部からの意見やアプローチが不可欠なのですが、学校というところはそれすら入り込めない高くて分厚い壁で囲まれています。
「それなら、教育委員会にいったら」という人がいますが、同じ穴のムジナです。
だから、学校の体質改善には完全に独立した「もの言える」外部の存在が必要です。
「鳥取県のいじめ・不登校対策本部会議は前に進んでいるのか?」というような意見も潰されます。
こちらに小学校の担任が「いじめを見て見ぬふり」をしなければならない理由を書きました。
いじめられている子をかばったら次は自分が標的になる、というのも学校という閉鎖的で同調圧力の強い、正義、正論が通らない異常な場だからです。
だから、いじめを子どもがなくせないのもこういう理由です。
いじめは生徒対生徒だけでなく、教員対生徒、教員対教員もあり、管理職からのパワハラもあります。
こういうことは外部からの改善要求がなくても、校長のリーダーシップと誰もがもの言える民主的な学校運営によって学校内部で変えることが可能です。
しかし、変えようとしない教員集団の意識に問題があります。
どうでもいいことにこだわり、大切なことが大切にされていない。
それが「学校」というところです。
私もいろいろな学校にも教委にもいましたが、学校によって雰囲気がまったく違います。
文科省や教委から指図されなくても、児童生徒も教職員も生き生きとした学校運営は可能です。
すでにそれを実践している学校もあります。
これもまた事実、投稿したような学校もあるのも事実です。
要は、教職員自身が意識を持って、子どもたちと教職員がワクワクするような学校を作ることは可能だということです。
教員の多忙化解消にしても、やおうと思えば今すぐできることばかりです。
できないのは、「やろうとしていないから」「諦めていくから」「やる気がないから」です。
そして、それを実行できるかどうかは校長次第です。
教員の多忙化を解消することは今すぐできることばかりですにも書きましたが、それをやっていこうとする職員集団の意識次第です。
念のために付け加えておきますが、学校をやりだまにしているわけではありません。
学校だけ変えようとしても変わりません。学校は社会の一部です。
社会の中にもこのような風潮が根付いていることが問題です。
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投稿日:2018年9月28日 更新日:
執筆者:azbooks