全く同感です。
「支援は当事者のペースで“同じ景色を見る”のが大事」
「支援する側の論理で“終わらせ方”を考えてはいけない」
「本人が動き出したきっかけに共通しているのは、それまで”自分の頭の中を占めていた思考の出発点”-登校・就職をするかしないか-が、それよりもっと”本質的な出発点”に取って代わられたからだ」
「不登校とひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは、当の本人以外にいない」
不登校・ひきこもりという言葉は、「登校しないといけない」「外にでないといけない」という世間一般の”常識”から作られたもの。
この”常識”というもの自体もかなり危うい。
不登校・ひきこもりが問題なのではなく、「社会が不登校・ひきこもり当事者に対して”否定的に捉えている”こと」が問題。
(先日、日本海新聞の見出しに「不登校児童数”最悪”」と出ていたのも否定的に捉えたひとつの表れ) 学校に行っていない子、働かずひきこもる人に対して「甘え」「逃げ」「自己責任」と断定し、それがますます当事者の苦痛を増大させていく。
当事者を追い詰めているのは、「不登校」「ひきこもり」という行為自体ではなく、そのことを否定するまなざし。
社会的なまなざしによって、自己否定する当事者自身のまなざし。
それこそが問題の本質。
「不登校」も「ひきこもり」も本人によって引き起こされているのではない。
それは社会的・経済的・精神的に厳しい状況に個人を追い込んでいる社会の方に問題があるという見方が重要。
「不登校」も「ひきこもり」の問題の本質は、「個人に生きづらさを強いる社会のあり方そのものである」という理解が求められる。
「適応させる」「治す」「解決する」といった方法は矯正であり、当事者の希望の真逆にあるという認識も重要。
その考え方に基づいた支援でなければ、本質的な解決には向かっていかない。
「解決」の姿も支援者が確定することではなく、当事者の自己決定によるものでなければならない。
不登校の児童生徒に対して学校・教育委員会・各種機関から求められることは、「とにかく不登校を解決しよう」「学校に行かせよう」という話になっている。
ひきこもりの人に対しては、コミュニケーション能力をつけること、対人関係を作ること、そして最終的には就労につなげることをゴールにしている。
しかし、それは手段の中のひとつであって目的ではない。
実際に、不登校・ひきこもりを経て、社会(本人にとっての居場所である環境)に出ている人たちは、「不登校を解決しようと周りが思わない」「(世間一般のいう)就労だけをゴールにしない」ことが結果としてよかったと思える事例も多い。
「よかった」という評価も「世間一般」の評価ではなく「本人にとって」の「よかった」でなければならない。
不登校・ひきこもりは「その人にとって」必要な時間であり、子どもも若者たちも、みんなどんな時も成長している。
そのような理解に立った支援でなければ、本質的な解決はできない。
本人たちが望んでいる支援とは、 「トンネルを歩いている自分を応援し、踏破するエネルギーを補給してくれる、ふだんは斜め後ろにいて、いわゆる“伴走型”で支える“後方支援”だ。
不登校・引きこもりを終わらせるものは何か
経験者が自ら著書で語る「対応・支援」の道しるべ